7 崖淵の拾い子-1
ようやくナハトが寝付いたのを確認し、カティヤは厩舎を出る。
ちょうど見張り交代の時間だった。
すれ違った兵がにこやかに敬礼し、カティヤも軽く挨拶を返した。
奇妙な客人のカティヤだが、兵たちは先日の件で、大いに好意を示してくれている。
新兵に槍の手ほどきを頼まれる事もある。
使用人達も親切で、知った顔もずいぶん増えた。
しかし、この居心地のよさが困るのだ。
(……早く帰らなくては)
一ヶ月いるとは約束したが、せつにそう思う。
このままなし崩しにズルズルと居場所を作ってしまいそうで、怖い。
夜露に濡れた芝生を歩きながら、表情を引き締める。
裏庭を通る途中、深夜にもかかわらず、訓練場で誰かが槍の訓練をしているのに出会った。
「……アレシュ王子」
見られた事に気づくと、アレシュは気まずそうに汗を拭き、槍を下ろす。
訓練着もやはり黒衣だったが、短い袖から鍛えられた腕が覗いていた。
「こんな時間に訓練ですか?」
男の腕くらい見慣れていたが、なんとなく気恥ずかしくて目を逸らす。
「ああ。昼は政務で忙しいからな」
エリアスから聞いたが、王子はけっして天才肌ではなく、どちらかといえば努力型らしい。
ただ、その努力をひけらかさないため、傍からは労せず何でもこなせるように見えるそうだ。
「剣なら少しは自信があったが、カティヤの方が槍は上手そうだ」
視線を槍へ逸らし、なんだか言い訳するようにアレシュは口を尖らせる。
「竜騎士は、槍が主力ですので」
五つも年上なのに、負けず嫌いな王子が可愛くて、つい口元が緩んでしまう。
――これが一番困る。
アレシュ王子については、あいかわらず何も思い出せない。
そもそもカティヤ自身の事でさえ、ごく幼い頃の記憶は曖昧なのだ。
けれど、意地っ張りな性格や、影の努力を惜しまないひたむきさ……そんなものにこそ、戸惑ってしまう。
わずか数日で、驚くほど心は傾きはじめていた。
立ち去ろうか迷っていると、ベンチに腰掛けたアレシュが、隣りをポンと叩いた。
「座らないか?」
一瞬ためらったが、腰を降ろした。
魔法灯火の外灯も付けられてはいるが、とても明るい夜だった。
ビロードのように滑らかな黒に、大きな月と満天の星空が広がっている。
「ナハトは大人気のようだな」
「はい。ナハト自身、まだ若いので子どもが好きなのです」
城の子どもたちは、最初こそナハトを怖がっていたが、すぐに慣れた。
さすがに空を飛ぶわけにはいかなかったが、背中を滑ったり、おおはしゃぎだ。
「それで、カティヤは?」
「え?」
「やはり、何も憶えはないか?」
「……王子、これもきちんと話しておくべきでした」
無意識に両手をきちんと揃え直し、カティヤは夜空に視線を向ける。
世界中どこでも、この空だけは共通のはずだ。
飛竜使いにとって空はもっとも身近な存在であり、神聖なもの。
たとえ、自分がどこから来たか、何者かさえ思い出せなくても、空では国境など関係ないのだと、義父母は教えてくれた……。