舐-2
「ねぇ、抱いて? 今すぐ抱いて? 壊れるまで抱いて? ねぇ、淋しいの。聞けるでしょ? 聞こえるでしょ? 命令よ、今すぐにしなさい」
これが、僕を迎えた彼女の第一声目。
二声目はこうだ。
「構って?じゃないと淋しすぎて切っちゃうかもよ?」
カチカチ、とよく響く音を立てるカッターが目の前で彼女の二の腕に押しつけられる。
ノースリーブの左腕は、アムカとリスカで余すところなく塞がらない傷口が広がったままだ。
ため息をついて、荷物を床に置いた。
「切りたきゃ切れ」
いっそそう思うが、口に出してみたところで、叫び声がひどくなるばかりなのは容易に想像できる。
彼女が「こう」なってから、もう何ヵ月が過ぎただろうか。
にっちもさっちもいかない泥沼の中にはまりこんでいる気分だ。
機能崩壊している実家以外に行く宛の無い彼女を部屋から追い出せず
病院に入れられるほどの金銭的な余裕もなく
幸い自分の食い扶持と家賃くらいはネットで稼いでくる正気の時の彼女の働きにも甘えができ
「自分一人我慢すれば一先ず彼女を悲しませずに済む」
いつしかそんな諦めに似た感情が心に巣食い、時間だけが過ぎて行っていた。
これが意味をなさないことも、何かを変えられるわけがないことも分かっている。
だが、だからといってどうしたらいいのだろう?
中途半端に残った彼女への情と、今にも崩壊しそうな彼女の精神。
自分ではストレスが貯まっているつもりは無いのだが、ジャクジャクと齧られるような痛みだけは、時折どこかから響いていた。
「ねぇ、まだ待たせるの? ずっと待ってたの、まだ待たせるの?」
症状が一番重い時間だ。
時間が奇行を呼ぶのか、
気候が狂気を呼ぶのか、
はたしたら狂喜的な何かなのか、
もしかしたら、僕自身がそれらを運ぶのか。
時折彼女はこんなことをして僕を困らせる。
もはや本人の意思ですらない。
元に戻ると反省して泣き続ける。
そして、ひとしきり泣いて、夕ご飯に僕の好物と彼女の好物を一つずつ、それから出汁の香る味噌汁とご飯を作る。
デザートに自分自身を食べさせてくれる。
蜂蜜漬けの、甘い一時だ。
そして僕は救われて、また来たる日に怯えながら、時を過ごすのだ。
プツリ、と音がした。
それは現実の音だったのか、頭の中の音だったのか。
彼女の腕からじわりと滲んだ血が、わずかに肌を伝っている。
「あーあ、切っちゃった。君のせいだよ?」
彼女が微笑む。
瞬きもせずに。
ツ、と、傷口から滴る赤い糸が、ぽた、と床に染みをつけた。
どうして
ウマクイカナイのかな?
ダレモワルクナイハズナノニ
「そうだな」
彼女の瞬きを境に自分の声が鼓膜に届き、世界に音が戻ってくる。
ふ、と深いため息を一つついた。
彼女をベッドに導き、左腕ですっぽり抱き締める。
買ってきた薔薇は、茎をちぎってボサボサの髪にいけた。
右手で細い彼女の腕をとり、舌で零れ落ちる血液を下から上へと舐めとる。
あ、と彼女は高い嬌声を上げ、溶けた表情をこちらに向けた。
「嬉しい、その気になってくれたのね」
するり、と猫のような動作で彼女が腕の中から逃げ出し、俺の膝を割り広げて収まると、にっこり微笑んだ。
髪と唇と、手首からわずかに滴る紅が、そこだけ浮いて見える。
「舐めてくれよ」
股間に押し付けるように頭蓋骨を引き寄せて一周撫でてやる。
薔薇が芳香を放って、微かに現実の醜さを隠してくれた。
吐くまで 飲めよ。
続きの言葉は奥歯で噛み殺し、俺はベルトを外しにかかる彼女に身を委ねた。