雫-1
彼女は僕に世界をくれた。
今まで僕を悩ませていた全てに、答えをくれた。
太陽が昇るのは草木や稲が喜ぶからで
水が上から下に落ちるのは、雨が帰る場所を知っているからなのだ。
その言葉に、両親が買い与えた全ての書物だけが、世界を構成しているわけではないことを知った。
彼女は僕に感情をくれた。
笑えば楽しい事を。
君が苦しい時には悲しい事を。
物理的な要素が働いていないのに胸は暖かくなるものだということを。
生きることの意味とすばらしさも。
思えば僕は、物心ついた頃から泣いた覚えも笑った覚えも怒った覚えもなかった。
周りの人間がそう呼ばれる何かを表現するのも、書物がそれらを示す何かの行動を起こすのも見ていたが、それは障子一枚隔てた先でのことだった。
周囲の人間は不思議がったが、僕の「両親」と呼ばれる人間は店を際限なく大きくすることに必死で、少なくとも気に掛けた事はないようであった。
だが彼女は違った。
僕の周りを付きまとっては、喜怒哀楽その表情を変化させた。
最初はただの観察対象だったのかもしれない。
絶えず感情の端を行来する人間はそれだけで面白かった。
それが、こんな感情に変わったのはいつの頃だったか。
「やっと笑ってくれたね」
気付くと口角が上がっていた時には、僕の中に何かが存在したことは疑い様の無いことだったと思う。
彼女は僕に全てをくれた。
口の悪い人々は
「部落の産まれ」
のただ一言で、彼女の全てを決め付けた。
その中には僕の両親も含まれる。
僕がその呪縛にかからなかったのは、両親から与えられた全てに反発したかったからに過ぎない。
実際、まともな教育を受けていない彼女の教養は低かった。
彼女の中で太陽が昇るのは草木や稲が喜ぶからで
水が上から下に落ちるのは、雨が帰る場所を知っているからなのだ。
読み書きは辛うじて出来ても遥かにたどたどしく、いくつかの仮名は頭から抜け落ち、時には釣りの計算も危うかった。
綺麗な服を渡して着飾らせてみても、その頭の幼さはにじみ出る。
しかし何より、彼女には自分の素直な気持ちを他人に伝えられる能力があった。
それは、金目当てに擦り寄ってくる者者よりも、何より僕自身よりも、ずっと素晴らしい人だと感じさせた。
全てをくれた彼女を、僕は当然のように娶りたいと思った。
当然のように反対された。
両親どころか、「友人」と自らを呼称する者達も、大概はこぞって僕の意見を変えようと試みた。
エタの
ヒニンの
ムキョウヨウの
「キミノシラナイスバラシイオンナドモ」だの
「トナリニイテハズカシクナイツマ」だの
どいつもこいつも。
それでも頑として聞き入れずにいれば、「両親」と呼ばれる人間は、今度は手法を変えてきた。
「ドウシテモキキイレラレナイナラバ、彼女ハ、ドコカニキエテモラワネバナルマイ?
エイエンニ。」
かくして、彼女の全ては否定された。
かくして、僕の全ても否定された。
彼女の存在が否定されるなら、僕は僕自身に価値を見いだすことは出来ない。
また、彼女が世界にいないのならば、僕は生きる意味も理由もない。
「エイエンニ」の意味がどこまでのものを指すのかは分からないが、少なくとも僕達が引き離されることは間違いが無かった。
僕は世界に全てを話した。
世界はボロボロと涙腺を壊した。
異端児の僕でも、世界はすでに僕を内包してくれていた。
「離れるくらいなら、黄泉の国で結ばれようか?」
耳元でそう囁くと、世界の瞳は大きく見開かれ、ゆらゆらと揺れた。
そして、景色をとっくりと眺め回したかと思いきや
「きっとずっと結ばれないのなら、だったら、あたしは、もう……」
僕の腕の中で世界は
自らを瓦解させた。
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