小鳥の里-6
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ツミの一族の隠れ里は、ロンダ―ンの北の外れにある。
人の立ちいれない、氷雪に閉ざされたけわしい山脈の合間にぽっかりと現れた、嘘のように緑の深いのどかな里だ。
人の足では王宮から何日もかかる距離だが、ツミの翼で追い風に乗れば半日とかからない。
ハヅルがたどり着いたのは、まだ午後の日も高い刻限のことだった。
整然と広がる田畑の合間に、点々と家屋が建てられている。
いくつかの区画は収穫期を迎えて、黄金色の稲穂が揺れていた。
光や温度や水を操作し、さらに植物の種子そのものを改良して、ツミの里では季節を問わず土地の広さの何倍もの収穫を得ることができるのだ。
里の上空に来て、彼女は光を屈折する空気の壁を周りに作って纏った。
里人の目に触れたくなかったのだ。風の向きがかわって飛翔しづらいのが難点だが、これで視力の良いツミの目からも彼女の姿は隠される。
里の者は皆、シアの直系であるハヅルのことを知っている。姿を見られれば、帰ってきた事実は里中に広まるだろう。
シアの親族や実家の使用人の耳にでも入れば厄介だ。経験からいって、彼らは大喜びでハヅルを屋敷に連れ込んで、宴会の用意でも始めるに違いない。騒がれるのは困る。
彼女は一直線に里の東側の一角を目指した。
何羽か飛びまわっている者たちとすれ違ったが、幸い気づかれずに彼女は目的地に到着することができた。
山裾に広がる広大な平野と田畑と森林。
見渡す限りケイイルの領有する土地である。その中心に、ケイイルの本家があった。
平屋建ての広大な邸宅に、無数の離れが寄り添い、木々や池や庭石を設置して苔を生やした美しい庭がそれぞれにしつらえられている。
相変わらず、だだっ広い屋敷だ。上空から見下ろしながら、ハヅルは改めて感心した。
ハヅルの実家であるシアの屋敷は、立地が山中で階層建築であるせいもあるがここまで広くない。
ここに、アハトは一人で住んでいた。
王宮に詰めるようになってからは、もともと少なかった使用人もなくし、屋敷の管理だけをケイイルの傍系の者に任せているという。
風を入れるためにか、中庭向きの障子戸が開け放してある。ハヅルは遠慮なくそこから屋内に舞い降りた。
畳をかぎ爪で傷つけるのをはばかって、着地寸前に人間態に戻る。
ふわり、とぴったりした黒い脚衣の上に着けた巻きスカートを翻して降り立ったところで、彼女は土足のままであることに気付いた。
この屋敷にこうして侵入するときにいつもしているように、その場で膝まである編み上げブーツを脱ぎ捨てる。
脱いだ靴を中庭に並べておいて、彼女はアハトの寝室へ向かった。
延々と続く続き間を通り過ぎて、ようやく当主の閨にたどりついた。
「?」
広大な屋敷の深部にある閨の前に立って、ハヅルは首をかしげた。
襖が一枚無くなっている。
趣味の良い山林図が描かれていて、ハヅルのお気に入りだったのだが。これでは絵が完成しない。
どうしたのかと見回すと、敷居から畳の一部にかけて、大きな傷がついていることに気付いた。
ハヅルは顔をしかめた。
ケイイルの屋敷は里でも有数の古い建築で、木材加工の様式から細かな調度品や絵画まで、一族の感性の変遷を現代に伝えるとして、それ自体が一種の美術品のように扱われている。
幼少の頃、ハヅルも毎日のようにこの屋敷に遊びに来ては好き放題に暴れまわっていたものだ。
しかしある日、古い掛け軸を一つ台無しにして大人にこっぴどく叱られてからは、子供なりに自重するようになっていた。
アハトもハヅルも成長して、子供が出入りすることなどなくなっただろうに、誰がこのような暴挙を行ったものか。
傷は見る限り真新しかった。修繕の痕跡もないところをみると、本当につい最近つけられたものなのだろう。
襖が一枚外れていて中の様子が見えていたのでわかってはいたのだが、閨にアハトの姿はなかった。
寝乱れた様子の空の布団が、広い座敷のど真ん中に敷いてある。枕元には、氷水に手拭いを浸した盥と、空の水差しの載った盆が置かれていた。
ひざまずいて触れてみた布団には、まだぬくもりが残っていた。つい先ほどまで寝ていたに違いない。
病人の身でどこを出歩いているのか、とハヅルが首をめぐらせたとき、背後から聞き慣れた声がした。