小鳥の里-2
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後宮の中心部、王女の住まう君影宮は、現在紅葉の盛りである。
南風之宮での攻防からそろそろ二ヶ月が経とうとしていた。
真相究明や、賠償についてのイスルヤとの交渉は長引いている。
イスルヤ側は今回ロンダーンと事を構えるつもりはないようで、基本的にはこちらの言うままなのだが、両国はもともとが友好関係にない。それは首謀者として捕らえられた国境の領主が、ロンダーンに断りなく裁きを下され、処刑されたことからも明らかだった。
その他にも、王子が壊した南風之宮の修築や神官たちの処遇についてなど問題は山積みで、王宮内は忙しい空気に包まれていた。
朝一番の講義を終え、次の教師がやってくるまでの休み時間に、紅葉した庭園を散策していた王女の背に、聞き慣れた声がかけられた。
「ミルハ」
ロンダ―ンの王女ミルハーレンに、家族にしか呼ぶことの許されぬ愛称で呼びかけたのは、彼女の双子の兄、世継ぎの王子シェシウグルその人だった。
「兄上。どうなさいました」
王女の後ろについて歩いていたハヅルは、振り返って怪訝に眉をひそめた。
王子は珍しく一人だった。常につき従っているはずのアハトの姿がない。
「お一人でこちらにいらしたのですか?」
ハヅルが思ったのと同じことを、王女が口にした。
「エイもアハトもお連れでないなんて珍しい」
ガレン公の城に数日滞在する間に、エイと王女は敬称抜きで名を呼び合う仲になっていた。
正確には、恐縮するエイを王女が持ち前の笑顔で押し切ったというのが真相だ。
何でまた、とハヅルが理由を訊ねたら、彼女はあっさりとこう答えた。
エイが王子のことを愛称で呼んでいるのを聞いて、うらやましく思ったのだ、と。
何がどううらやましいのか、意味がわからず首をかしげた彼女に、王女は言ったものだ。
『だって両親の他は、わたくしだって、兄上をシウなんて呼べないのよ』
もちろんその言葉は、ハヅルをますます混乱させただけだった。
つまり彼女は兄を愛称で呼ぶことを許されたエイをうらやましく思ったらしいのだが……だからといってどうして、彼に自分を愛称で呼ばせようという発想になるのだろう。結果までのプロセスがまったく理解できない。
そのシェシウグル王子は、腕組みして王女の疑問に答えた。
「エイは用があってな。先日の件でまだ聞きたいことがあるとかで、呼び出されて行ってしまった。アハトは……」
王子はそこで、一旦言葉を切って真面目な顔になった。
「今日はそれで来たんだ」
彼は、妹から傍らのハヅルに視線を移した。
「ハヅル。アハトの具合はどうだ?」
「具合?」
首をかしげたハヅルに、王子の方が驚いた顔をした。
「知らんのか? 病気にかかったからと、三日前に暇をとったんだが」
「えっ?」
ハヅルは目を丸くした。
知らなかった。祖父にも一族の誰からも、そんな話は聞いていない。
「俺も、一昨日の朝になってサケイに聞かされたので、詳しいことがわからんのだ。エナガもサケイも風邪だとしか言わんしな。お前なら知っているかと思って様子を聞きに来た」
ハヅルは眉を寄せた。この三日、祖父とは何度も顔を合わせている。それなのに一言もないとはどういうことだろうか。
ハヅルの様子に気付かず、王子は続けた。
「あいつはあれで生真面目だからな、あいさつの一言もなく里帰りするとも思えん。よほど悪いのかと思ったんだが……」
王子は顎に手をやった。
「そもそもお前たちは風邪をひくのか?」
「かかりやすさということなら人とそんなに変わりません。かかる病毒は違うものが多いですけど」
「そうか。このところ冷え込んだからな。布団を剥いで寝でもしたのかな」
王子の言いぐさに、小さな子供でもあるまいし、とハヅルは思った。アハトが聞けば怒るだろう。
「本当にただの風邪をこじらせただけならいいんだがな」
「何かお気にかかることでもございますの?」
王女が心配そうに訊ねると、王子は少し考えてから頷いた。
「南風之宮で、あいつ、俺たちを庇って何か食らっただろう。あいつ自身平気な顔をしていたので忘れかけていたが、何か障りがあったのではないかと思ってな」
ハヅルはまたしても目を剥いた。そんな話は聞いていない。
いや、頭領たちには報告が行っているのかもしれないが、少なくとも、ハヅルは知らなかった。
難しい顔になったハヅルに王子は気遣うように笑いかけた。
「お前が知らないのなら大したことではないんだろう。あれからだいぶ経つしな。取り越し苦労ならいいんだ」
完全に諒解した風ではなかったが、王子はそう言って打ち切った。
「心配ですわね」
王子は素直に頷いた。
「そうだな……」
「アハトが不在ならば、お忍びでの外出はしばらくお休みくださいませ」
妹のからかうような口調に、王子が顔をしかめた。
「それを言うな。……一応、今は代理の警護役が来ているそうだ。姿は見せんが、そのへんにいるのだろう」
王子はきょろきょろとあたりを見回す素振りをした。
「そういうことだからハヅル。何かわかったら俺に知らせてくれるか?」
思案に沈んでいたハヅルは名を呼ばれてはっと顔を上げた。
「はい……」
頷くと、頼んだぞ、と王子は真顔で彼女の肩を叩いた。