閑話−不戦庭園−-7
「僕は、」
彼は知らず唇を湿した。
「……シウが僕をここに連れてきたのは、一種の緊急避難だったんです。僕を、もう一日だってアールネにも、戦場にも居させてはいけないと、彼は考えたようでした」
ミルハーレン王女が、どの程度彼の事情を汲んでいるかエイは知らない。
彼女は何もかも理解している風に、慈しむ眼差しで続く言葉を待っていた。
「シウに言われるままこの国に来ました。でも、それほど期待に胸を躍らせていたわけじゃありません。ここも他の国と同じで……それでもシウがいれば十分だと、そう思っていました。彼が居るだけで、僕には何もかも違っていましたから」
エイはシェシウグル王子の言葉を思い出す。彼はエイのすり減った、弱い精神(こころ)を見透かしていた。
何かを望むことすら満足にできなくなっていた彼に、あの王子は逃げ込む場所を与えてくれたのだ。
衰弱した心を、何も考えなくてもよい、心地よいだけの安楽にひたして融かすために。
彼の庇護のもとで彼の言うまま、すべてをあずけて過ごす日々は、エイを確かに癒しつつあった。
誰かを守るためと、名分を得た戦いは、彼を一切傷つけなかった。……そしてそれもまた歪みであると、理解できるようにもなっていた。
彼がこの国で得なければならないのは、それに向き合える強い精神だ。
今はまだ……エイは首を横に振る。もう少し時間が必要だ。
与えられたこの時間に、この優しいばかりの庭に、何かを、見つけることができれば……
「でもこの国は、美しいと思います。たとえ戦場として訪れても、僕はこの国の豊穣に、きっと目をみはったでしょう。ここにいれば、僕はきっと、」
きっと。続く言葉を、彼はわずかに躊躇した。
躊躇いの一瞬に、つと王女の頭の後ろを何かが通り過ぎた。
エイの早い目は、はっきりとその形をとらえた。小さな蜻蛉だ。
先ほどとは違う種類のようだった。ほっそりとした胴体は、秋らしい茜色に色づいている。
エイは反射的に、王女を押しのけるように前に出て、手を伸ばした。
進行を遮られた蜻蛉は、面喰らって彼のてのひらにぶつかった。
軽くつかんだ手の中で暴れる虫の異質な感触に、ぞわりと生理的嫌悪がこみ上げてくるのをこらえながら、彼は翅をつまみ直した。
「ど、どうぞ」
いかにも苦手そうに、蜻蛉をできるかぎり遠ざけて、王女の眼前に差し出す。
ミルハーレン王女は美しい眼を瞠り……ついで、深い微笑みを浮かべた。
「ありがとう」
彼女はエイと相対して白い手をのべた。彼の手を包むようにして指先が両翅をはさみこむ。
互いの指がわずかに触れ合って、王女の体温がほんのりと、エイの頭の隅の凍えて縮こまった場所に、木漏れ日のように射し込んだ。
彼は不意にこみあげた恐怖にぱっと手を放した。
……恐怖だと、そのとき彼は感じた。
それに少しでも似た感覚を、他に知らなかったのだ。
「あっ」
渡すタイミングが合わず、茜色の昆虫は透明な翅をひらめかせて彼の手を逃れた。
あっけにとられて見守る中、慌てた素振りで水音のする方へと姿を消していく。
「す、すみません」
「いいのよ。虫籠に入れて持って帰っても仕方ないわ。彼らにはこの庭の水辺がよいのですから」
先刻と違って落胆する風ではない。
彼女は蜻蛉の去った方向を長い間見つめてから、言った。
「エイ、あなたに……あなたが我が国にいる間、美しいものだけを見せてさし上げられたら、どんなに良いでしょう」
そう、唄うように囁く彼女の横顔は哀しげで……
エイは、これほど美しいものを見るのは初めてだと思った。
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