閑話−不戦庭園−-6
「兄上が、何と言ってあなたを我が国に連れてきたかわかる気がします。あなたを騙すのは、とても簡単そうね」
「だます?」
続けて語ろうとした王女は、不意に立ち止まり、道端に身をかがめた。
エイが慌てて追うと彼女は、し、と口元に人差し指をあて、静かにするよう示した。
何事かと、彼は彼女がすらりとのべた手の先を見つめた。
白くか細い指先は、冬咲きの草花の、まだ蕾もない青く茂る葉の先端をとらえようとしている。正確には、葉先につかず離れず、まつわりつくように飛び回るものを。
薄い透ける翅がちかりと、光を弾いてひらめいた。蜻蛉だ。
虫全般の苦手なエイは、知らずぎくりと一歩後ずさった。
同じ瞬間に、蜻蛉は真剣に捕獲を試みた優美な手指をひらりとすり抜け、木々の奥へと飛び去っていった。
王女はしばらく逃げられた手をそのままに、ひどく落胆した表情でため息を吐いた。
あまりにがっかりした様子にエイは驚いた。大国の王女、でなくとも妙齢の高貴な女人が、蜻蛉を捕らえてどうするつもりだったのだろう。
黙っているべきか迷いつつ、彼は沈黙に耐えかねて訊ねた。
「虫がお好き、なんですか?」
王女は少しはにかみながら肯定した。
「好きよ。虫も魚も、鳥も大好き。でも、後宮の庭でこんなことをして遊んでいたら、ハヅルにお医者様を呼ばれてしまうわね」
内緒にね、と彼女はいたずらっぽく囁いた。
虫の飛び去った先に、水のせせらぎが聞こえる。水路と泉も天然のそれのようにしつらえられているのだ。
この庭は豊かだ。改めてエイは思う。何もかも人為によって造られていながら、それと知らずに集う生命を何食わぬ顔で内包している。
「ロンダ―ンは……美しい国ですね」
「そう言ってくださるのは、あなたが我が国の美しいものしか見ていないからですわ」
エイの無意識の独白に、王女はそう応えた。
「美しい都、美しい城、美しい庭、優しい、可愛い小鳥たち…美しい、王家の兄妹たち」
彼女は最後だけ、冗談めかして笑いながら口にした。
「わたくしはアールネを通ったことがありますけれど、美しいと思いましたよ。建物や庭園の様式も、こちらとは違って整然としていて」
故国の名に、彼はかすかに表情を硬くした。
「そう……でしょうか。僕はそんなふうに思ったことはありません。他の国々の、お城や庭も見ましたが、ロンダ―ンほど美しいと感じたところは……」
「それは、戦いに行かれたのでしょう? 制圧し、領土交渉をしに。あるいは和平を結びに」
「それは、まあ……そうです」
「ならばそこは、あなたにとっては戦いの庭。剣をまじえる戦の場と同じでしょう。戦場を美しいとは、なかなか思えぬものですわ」
彼女は静かに、エイに向き直った。
「あなたの、戦いの庭……」
優しい色合いの双眸が、あわれみをたたえて彼を見つめた。
「……アールネも、同じだったのですね」
エイははっと目を見開いた。