閑話−不戦庭園−-2
「……王女様」
ほっそりした肩に、それでも触れるのはためらわれて、彼は小声で呼びかけた。
幸い、三度目の呼びかけが眠りの淵に届いたようで、彼女はかすかに身じろいだ。
よかった、と彼はほっと胸をなで下ろした。
「具合でもお悪いのですか?」
「眠っていただけです……」
「あの、風も冷えてきましたし……お部屋に戻った方が」
日が落ちるにつれて、気温はぐんと下がってきていた。外でうたた寝するようにはとても見えないしとやかな王女は、ようやく顔を上げた。
「……エイ殿?」
「お休みの邪魔をしたくはないですけど……風邪をひいてしまいますよ」
「寒くはないわ。とても気分がいいの、このまま眠らせてくださる」
「王女様」
言葉につれて声はどんどん弱まっていって、しまいに彼女は再度木卓に突っ伏した。エイは困り果てて呼びかけたが、彼女は睡魔に勝てぬ様子で、かすかに寝息を立て始めた。
「本当に風邪をひきますよ。せめて何か……」
何か羽織るものでもと言いかけて、彼は言葉を途切らせた。
周囲に防寒の役に立つものはない。自分の着ているものの他は。
もうほとんど眠っている王女だったが、ふわりと着せかけられた布の重みと温もりにふと唇に笑みが浮かんだ。エイは自らの上着を彼女に提供したのだ。
かすかにありがとう、と囁きが耳に入って、彼は、いいえ、と首を振った。
エイは彼女が起き上がるのをじっと待った。
彼の気配がいつまでも消えないことをわずらわしく感じたのだろう。王女はゆっくりと頭をもたげた。
「……あなた、いつまでそこにいらっしゃるの」
気品高い王女の思わぬ寝起きの不穏さに、エイは少々ひるんだ。ただ、そのまま回れ右をして立ち去ることもできない。彼には彼の事情があるのだ。
「王女様がお部屋に戻られるまでです」
「あなたも風邪をひいてよ?」
厚手の上着の下は王女よりも薄着の彼を彼女は振り返った。四阿の柱のそばに立つエイの弱り果てた顔を見て、王女は少し表情を和らげた。
上着を返そうとする彼女に、彼は両の手のひらを向けて拒否した。
「あなたに風邪をひかせたなんて知られたら、シウとハヅルに何を言われるか。僕がひいた方がずっとましです」
彼女の双子の兄であるシェシウグル王子と、警護を務める年下の少女。
彼女に過保護な二人の名を二つながら並べると、王女はようやく目をぱちりと見開いた。
「……仕方ないわね」
彼女は肩をすくめて立ち上がった。
優雅なしぐさで身をひるがえすと、彼女はふわりと衣裳に風をふくませて、軽やかに四阿の階段を降りた。
気温の下がってきた夕方の風に、寒がるでもなく心地よさそうに目を細める。
エイは置き去りにされた上着を羽織り直して、ゆっくりと彼女の後に続いた。
彼女はふと立ち止まって彼を振り返った。
「ところで……」
エイも立ち止まる。姿勢よく彼女の言葉を待つ。
「何かご用でしたの?」
「いいえ。庭を散策していたら偶然お見かけして……動かないので、お加減でも悪いのかと思って」
「そう。わたくしもです」
「え?」
「わたくしも、お庭がとても美しいので散策していたのです」
「お一人で? ハヅルは……」
「あの子は今、留守にしています。用事を頼みましたの」
「ああ、そういえば……」
エイはひとり頷いた。首をかしげて見つめる王女に、彼ははっとして付け加える。
「そういえば、今日は姿が見えなかったな、と思って」