第5話-6
そして、例の映画の公開を間近に控えたある日。
彼の人となりを十分知って、英里は一緒に見に行く事に決めたのだった。
同じ学部の友達と2人で映画に行く位ならば、構わないだろうという結論に至ったのだ。
以前までの彼女なら、きっと迷う事なく断っていた事だろう。
それだけ、彼女の心の中が空虚で、不安定になっていたのかもしれない。
そう思っていた矢先、ちょうど駅のホームで彼の姿を見掛けた。
英里は遠慮がちに声を掛けると、彼はいつものように明るい笑顔を向ける。
「あ、水越さんも今帰り?」
「うん」
「俺ホントは今日5限までなんだけど、ちょっと用事でサボリ」
「あの…」
「ん?」
「この前の映画なんだけど…一緒に見に行かない?」
英里はようやくそう告げると、彼はとても嬉しそうに微笑み、勿論快諾した。
…本当は、圭輔を誘おうかとほんの少しだけ思っていた。
だが、圭輔は相変わらず忙しいようだった。
それに、そもそもこの映画を見たいかどうかわからないし、今の状況ならばきっと誘っても断られる可能性が高そうだ。
意に沿わない事で自分の時間を費やす、また逆に相手の時間も費やさせるのも彼女の嫌う事だ。
それならば、映画でも互いに見に行きたいと思っている同士で行く方が自然だ。
圭輔と会えないまま1ヶ月以上経っているのに、相変わらず簡潔なメールや電話ばかり。
教育実習を終えて、しばらく会えなかった時もそんな感じだった。
彼は、この現状をどう思っているのだろう。
同じように、恋しいと思ってくれている?
それとも、仕事に比べれば取るに足らないこと?
(…何を、聞き分けのない子供のような事を…)
しかし、考えれば考える程、ますます胸の奥にもやもやとした塊が圧し掛かってくる。
英里は自分の髪の毛を指でなぞる。
圭輔が好んで触れる、この長い髪。
自分自身が綺麗だと言われるとどうしても信じられず素直に喜べないが、髪の事を褒められると純粋に嬉しくなる。
ちょっとした願掛けで、今まで珍しい位長く伸ばしてきたが、以前よりもずっとずっと手入れに気を遣うようになった。
大嫌いな自分の中で、数少ない好きだと思える部分。
その髪の毛先でさえも、心なしか元気がないように感じられる。
まるで、久しく彼に触れられていない事を嘆いているかのように。
「…じゃあ、俺ここで降りるから」
「あ、うん、またね」
彼の声でようやく我に返った英里は辛うじて笑顔で手を振る。
電車の座席に凭れて、英里は溜息を吐いた。
その夜、圭輔は1人、自宅のパソコンと向き合っていた。
―――本当に、偶然だった。
今日はたまたま電車で通勤をしていて、その帰りの出来事。
英里と同じ電車に乗り合わせていたのに、つい声を掛けるのを躊躇ってしまった。
電車で彼女と見知らぬ男が楽しそうに話している姿を見掛けたからだ。
どうにか頭の片隅に追いやろうとしているのに、その光景にどうしても思考が支配されてしまって、思うように仕事が捗らない。
大学の友達なのだろうが、英里は鈍すぎる。
あの横顔を見れば一目瞭然だ。あいつは、英里に気がある。
それなのに、あんなに無防備に微笑んでいて…それがすごくもどかしい。
友達関係にまで口を出すような大人気ない事はしたくないと思いつつも、苛立って仕方ない。
元々、年齢も立場もあまりに違う2人。
教育実習が終わる日、離れて行こうとする英里を抱き締める直前。
この一線を越えるならば、相応の覚悟が必要だということは十分承知していた。
何もかもが些細に思える位、不器用だが純粋で真っ直ぐな愛情を向けてくる英里にどうしようもなく惹かれていて、最早戻れないところまできてしまった。
もし、あれ以上他の男と親しくされると、醜い嫉妬で気が狂いそうになる。
しかし、今の自分にはとやかく言える筋合いはない。
英里が文句を言ってこない事に甘えて、仕事の方を優先してしまっているのだから。
「…。」
キーボードを打つ手を止めると、軽く溜息を吐いて、天井を見上げる。
早く明日の準備を終わらせなければならないというのに、無意識のうちにまた気を取られてしまっていたようだ。
思わず、圭輔は携帯を取る。
23時頃。ちょうど風呂上がりだった英里は部屋で髪を乾かしているところだった。
その時、携帯の着信音が鳴る。
また、あの着信音が…。
英里は逸る気持ちを抑えて、電話を取る。
『もしもし』
『…英里』
その声を聞いた途端、英里の胸は震える。
いつもと同じなのに、何だか彼の声が耳の奥に切なく響くのだ。
『どうかしたんですか…?』
『え?』
『何か…あったんですか…』
彼女が問いかけるも、当然、今、圭輔が思い悩んでいる事は口に出せなかった。
英里も、初めて男性と2人きりで映画を見に行く事になったというのは、彼に伏せていた方が良いのではないかと、心の何処かで感じていた。
2人それぞれに思惑を抱えたまま、数秒間、無言が続いた後、
『……英里に会いたい』
圭輔の囁くような、小さな声が耳に伝わり、英里の胸は切なく震える。
彼がこんな弱音を吐く事なんて珍しい。
仕事がある時はどちらかというとそれを優先し、用事もなくこんな事を言い出す事などなかった。
英里も、仕事に対して真摯で、いい加減にできない、良い意味で不器用な彼が愛しくもあるため、自分の淋しいという気持ちを押し殺してでも彼の迷惑に掛からないようにしていたのに。
少しの疑問を抱えながらも、英里は自然と自分の口元が緩んでいくのがわかった。
ずっと、会いたいと思っていた。
彼も同じ気持ちなんだと知り、英里は嬉しくなる。
『…私も、圭輔さんにすごく会いたいです』
もし、今彼が何かに悩んでいるのならば、少しでもそれを和らげてあげたい。
実際には非力な自分だが、元気を出してもらえるように、精一杯の思いを込めて伝えた。