暖かな氷の世界 * 流血表現があります-2
「不思議ですね。こんなにも命を感じるのに、君は幻だなんて」
「幻だよ。だから、君と違って僕はずっと変わらない」
「……僕は、変わりましたか?」
「背が伸びた」
「ええ」
「口調が変わった」
「ええ」
「それから……」
言いかけておきながら、『僕』は途中で口をつぐむ。
「……自分を大事にしなくなった?」
替わりに、言ってやった。
「せっかく言わないでおこうとしたのに、どうして言っちゃうのかなぁ?」
拗ねた目で、『僕』が見上げる。
「言わなくても、知っているのですから。同じことですよ」
壁にあいたヒビ穴から、冷たい隙間風が吹き込んできた。
『僕』にピトリとくっつくと、じんわりぬくもりが伝わる。
夏はとっくに終りを告げていた。
あと数日もすれば、初雪が降りだすだろう。
「寒くなってきたみたいだね。僕は何も感じないけど」
「外の世界は、いつだってとても寒いですよ」
暖房もない書庫の中は、シンシンと冷えこむ一方だ。
僕に与えられた私室は日当たりが良く、大きな暖炉があり、湯も十分に使える。衣服も上等な品ばかり。
……それでもなぜか、ここの方がよほど暖かい気がする。
ここに、これから半年以上これないと思うと、臓腑から凍り付いていきそうな気分だ。
「今年の冬は、ついに僕も離宮へ同行する事になりました」
ついさっき、父王から告げられた勅命を話す。
冬には雪で閉ざされてしまうフロッケンベルク王都。
よって冬の間、国王は森林の外にある離宮で政務を取る慣習だ。
「去年までは、王都を守るように言われていたのに?」
「ええ」
前々から、王は僕を同行させたがっていたが、毎年あらゆる手を使って、王都に残れるよう仕組んでいた。
しかし、今年は様々な邪魔が入り、うまくいかなかった。
「ロクサリスが攻め込みそうな気配を見せておりますので」
「戦場にも行くの?」
『僕』が顔をしかめる。
「ええ。王妃さまが僕を将軍にと、大絶賛してご推薦くださったそうです」
妻がいつも目の敵にしている妾腹の子を絶賛し、一軍を任せたらどうだと言うのを、国王は実に都合よく解釈した。
『アレもどうやら、ようやくお前を認める気になったようだ。その年齢で将軍など前例がないが、お前なら周囲も異存はあるまい』
会議室で王がそう宣言した時、一人くらい、不満を露にする者がいれば良かった。
だが王と王妃の機嫌をとることしか考えない廷臣達は、張り子の人形のように頷くばかりだった。
「下手に反対し、ここへ執着を見せるのは危険だと思いましてね」
王妃は僕を、今すぐにでもくびり殺したいほど憎んでいる。
書庫を調べつくし気が済んだかもしれないが、少しでも弱みを見せるわけにはいかない。
今日も、もうこれ以上の長居はできないから、名残惜しさを我慢して立ち上がった。
「来年は、また何かしら考えますが、今年はおとなしく外に行きます」
書棚に腰掛けたまま、『僕』はヒラヒラと手を振る。
「それじゃ、僕もおとなしく待ってるよ。土産話を楽しみにしてる」
扉の取っ手に手をかけた時、後ろから上着をつかまれた。
「……?」
『僕』が、上着の裾を掴んでいた。
「僕は、君の願いから生まれた」
小さな『僕』は、とても悔しそうに顔をしかめていた。
「君を助けたいのに……ここから出られないなんてね」
「……僕の願いは、君がここに居る事です」
正面から向き合うには、しゃがまなければならないほど、僕はもう背丈が伸びてしまった。
この背丈だった頃、僕はこの小さな書庫で隠れ暮らしていた。
王子でありながら、食べ物も毛布もろくになく、暖まる手段は魔法だけ。
浮浪児のような暮らしはさぞ辛かっただろうと、何も知らない連中は同情して見せる。
僕が……どんなに穏やかで幸せな暮らしをしていたか、誰にもわかるはずはない。
「僕の帰る場所で、待っていてください」
「…なんだ。作り笑いしかできなくなったと思ってたけど」
くしゃりと顔を歪め、『僕』が笑う。
「まだ、そんな顔で笑えるんだね」
暖かい身体に抱きしめられた。
――ああ。やっぱり。
ここは、外の世界よりもずっとずっと暖かい。
血肉を持たず、この温度すら幻だとしても、そんな事が命の証明になるものか。
君がここでしか存在できないなら、僕がここに来ればいい。
凍えつきそうな寒い世界から守り、ぬくもりを分け与えてくれた。
ここだけが、僕の帰る場所。