7-2
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香苗 五十歳
俺の祖母と同じだった。家で倒れた時にはまだ息があった。救急車を呼ぶかどうか迷い、やめた。どうせ何の処置もされないのだから。
俺は香苗が少しでも苦しくない体勢になるように首元に座布団を噛ませ、耕太と麻美の学校に電話をした。状況を話すと、学校側は早退をさせてくれると言う。その後二人は息を切らせて一緒に帰宅してきた。
「まだ間に合う?」
玄関からただいまも言わずに叫んだのは麻美で、「大丈夫だ!」と叫び返すと二人、バタバタ走り寄ってきた。香苗を取り囲むように座る。
「お母さん、やり残した事はない?」
息苦しそうにする香苗は、声を出さずに唇で「ある」と答える。麻美は少し狼狽したように声を上げる。
「何?」
麻美の質問に対し、香苗は最後の力を振り絞って両手を彼女に伸ばす。麻美は理解したようで、香苗を抱きしめ、香苗は麻美を抱きしめた。少しずれた所にいた耕太も膝でずりずりと移動し、香苗の横に来ると、同じようにぎゅっと抱きしめ合った。耕太からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、香苗のグレーのニットに丸いシミを作った。 反対に座っていた俺にも手が伸ばされ、俺は香苗の身体を起こすような形で抱きしめた。麻美の嗚咽が聞こえる。嗚咽の隙間をくぐって、俺の耳元で香苗はごくごく小さな声を振り絞って言った。
「みんな、だいすき」
「俺達もだ」
俺は香苗を元の体勢に戻してやり、彼女の目元をティッシュで拭ってやった。彼女の顔をめがけて落ちた俺の涙と一緒に。
俺は何とかして笑い顔を作った。歪でもいい、口元が笑えれば伝わるだろうと思った。
「さすがに笑ってさようならはできないな。やっぱり、明日まででも明後日まででも生きてて欲しいんだよ、香苗」
徐々に顔色をなくす香苗の手を握った。
「香苗、耕太と麻美は俺が育てるから心配するな。あと数十年したら俺も逝くから、そしたら香苗の事探すから。待っててくれ」
青い顔をしながらわずかに頷いた香苗の口端に、少しだけ笑みと分かる動きが見られた。
俺はそれで十分幸せだった。
香苗と夫婦だった二十二年、悔いはない。きっと香苗もやりの事した事はないだろう。さっきの包容で全て終わった。あとは彼女のタイミングで、命を終わらせるだけだ。
俺が握る手と、反対側は子供達が握っている。
香苗が一度瞬きをした。目尻からこめかみに向けて涙が一筋、零れた。
そのまま彼女は目を瞑り、口端に笑みをたたえたまま、静かに息を引き取った。