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それから毎日その医者は、ふらりとやってきては俺の枕元に座り、俺の生い立ちや、トルチルになった経緯、トルチルになって辛かった事、楽しかった事などを聞いた。医者にとって何の利益もならないその話に、医者は熱心に耳を傾けた。
初めは鬱陶しいだけだった医者の来訪が、俺はだんだんと楽しみになってきた。そのうちに、一日のうちの唯一の楽しみになってきた。
しかし、それとは裏腹に、痛みが日に日に増大していくのだ。初めは気のせいだと思っていたが、あまりの痛さに眠る事すらままならなくなってきていた。医者と話すたびに、痛みは増して行く。
ある日、意を決して医者に言った。
「麻酔がなぁ、効かなくなってきてんだ。痛いんだ。もう生きてる意味が分からない。先生、俺は何のためにこれから三十年、生きていないといけないんだ?」
医者は眉間にしわを寄せ、俺の額をタオルで拭う。
「親も死んだ。嫁も子供もいない。俺が死んでも葬式をやってくれる人もいない。身体は痛い。薬は効かない。食欲も出ない。眠れない。どうしたらいい。俺は何のために生きてるんだ、先生」
黙ったままの医者は目を瞑り、カルテにトントンとペンを叩き続けている。
ペンの音が止み、俺に視線を寄越した。
「生きているのが辛いですか、斉藤さん」
俺は即、頷いた。
「一時間だって辛い痛みを、これから六十年も耐え続けて行く事を考えたら、絶望なんてひと言じゃ片付かないぐらいだよ。先生、俺は死にたいんだよ。どうしたら死ねるんだ? トルチルが死ぬための研究はされてないのか?」
医者はゆっくりと首を横に振った。それから暫く点滴の輸送器を見つめた。
「死にたい、ですか?」
静かな、水がこぼれるような声だった。しかし痛みにもだえる俺の耳にもしっかりその声が届いた。
「死にたいよ、先生」
「僕の両親もトルチルだったんです。二人とも、眠るように息を引き取った。斉藤さんにも、その権利はある筈です」
医者はその場を立ち去って行った。それからも俺は寄せては返す痛みの波に耐えていた。耐えるしかなかった。
しばらくして医者は、ステンレスの架台を押しながら戻ってきた。注射器と、小さなボトルが置いてある。薬剤の名前までは見えない。見えた所で、効果なんて知らない。
「点滴に、少しお薬を混ぜますね」
そう言うと、ボトルに注射器を差し込み、中の溶液を抜き取った。そして点滴の途中に針を刺すと、筒を押した。偶然通りかかった別の医者がその光景を見て息をのみ「山口先生!」と目を見開いて叫んだ。
俺は悟った。
俺は死ねる、と。
叫んだ医者は、その場から走ってどこかへ向かって行った。別の医者でも呼びに行ったんだろう。山口と言うその若い医者は、俺の枕元に座った。
「もう少ししたら、楽になりますからね」
そう言うと、柔らかな笑みを浮かべた。
「先生、いいのか」
「いいんです、僕は人の苦痛を和らげたくて医者になりました。今ここで斉藤さんを見放したら、僕が医者になった意味がありませんから」
眼鏡をくいっとあげながら、また微笑んだ。
そのうち身体が少しずつ楽になり、痛みが抜けた。自由に動ける、そう思った時にはもう、力が入らなくなっていた。眠いような、身体が重いような、飲み過ぎた時のような感覚になった。
「先生、俺そろそろかもしれない」
山口医師は優しく微笑みながら頷き、「そうですか」と言う。
「先生、ありがとう。先生には感謝してる」
「その言葉が僕にとって一番のお給料なんです」
俺は力が入らない顔面に集中して、何とか口端に笑みを浮かべる事ができた。
「斉藤さん、ありがとうございました。良い経験です」
山口医師はにこやかに笑ったまま、俺の視界の中からすーっと消えて、見えなくなった。そこには薄暗い闇が広がるだけだった。