実習-3
四日目の実習が終わり、宿泊棟に戻ろうとする真雪を、板東が呼び止めた。「シンプソンさん。」
「は、はい?」
板東は真雪に近づいた。そしてごく自然にその手を取った。「今夜、食事をごちそうしましょう。美味しい店を知ってるんです。いかがですか?」
真雪は思わず辺りを見回した。
「別に食事をするだけですよ。」板東は笑った。
「い、いいんですか?主任。」
「もちろん。貴女とはいろいろとお話ししたいこともあったし。」板東はまた笑顔を作った。真雪の鼓動が速くなり始めた。
板東は真雪を連れて水族館の正面玄関を出た。そしてまっすぐ歩いた。
「すぐそこです。しばらく行くと、川を渡るでしょう?その先、まっすぐ行ったところに、僕の行きつけのイタリアレストランがあるんです。」
「あ、あの、主任、どうしてあたしを誘って下さったんですか?」
「貴女が気に入ったからです。」
「え?」
「それだけです。」板東は正面を向いたまま言った。
そのレストランはとても高級そうな雰囲気に思えた。真雪は入り口の前で足がすくんだ。
「大丈夫。見た目以上にカジュアルなんです。」板東が言った。「遠慮しないで下さい。さあ。」
板東に背中を押され、真雪は中に入った。
「お待ちしておりました、板東様。」すぐにウェイターが出てきて二人を奥に案内した。「いつもの席でよろしいですか?」
「いいよ。」
店の一番奥の暖炉際のテーブルに二人は落ち着いた。
暖炉が燃えていた。真雪はかつて龍が自分の写真を自宅で撮ってくれたことを思い出していた。それは暖炉の前で裸になって撮った、一連のヌード写真だった。撮影の後、龍は真雪を優しく抱き、そのままなだれ込むように二人は真雪の部屋でお互いの身体を求め合ったのだった。真雪はその晩のことを思い出し、胸を熱くした。
「真雪さんは、もう今年の誕生日、終わりましたか?」
板東の声に真雪ははっと我に返った。
「は、はい。丁度先週でした。」
「ほう、先週でしたか。」
「はい。」
「それじゃあ、今からお祝いしてあげましょう。」
「え?」
板東は手を上げてウェイターを呼ぶと、何やら小声で話しかけた。「かしこまりました。」ウェイターはそう言って、真雪の方を向き、にっこりと微笑んでそこを去った。
「二十歳になった、ということでしょう?」
「そ、そうですね。」
板東はテーブルに置いてあった二つの水の入ったグラスを脇にどけた。
間もなくウェイターが赤ワインのボトルと小さなショートケーキを運んできた。
「え?しゅ、主任、あの・・・・。」
「二十歳になったんでしょう?もう飲めるじゃないですか。」
ウェイターによって抜かれ、手渡されたコルクを板東は受け取り、自分の鼻に近づけた。そうして、ウェイターに軽くうなずいた。ウェイターは手に持ったボトルから二つのワイングラスにそのワインを注いだ。
「大丈夫。無理はさせません。安心して下さい。」板東は笑った。
血のように赤いワインの入ったグラスが目の前に置かれた。真雪は板東を見た。彼はにこにこ笑いながら、両手で顎を支えて言った。「初めてですか?真雪さん。」その言葉は、真雪の胸の深いところにしみこんだ。
「・・・はい。」
板東は自分のグラスを持ち上げた。「さあ、乾杯しましょう。貴女の二十歳のお祝いに。」
真雪は恐る恐るグラスを手に取った。
「貴女のこれからの人生が素敵なものでありますように。」板東はそう言って、グラスを目の高さまで上げてから、口に運んだ。躊躇している真雪を見て、板東は言った。
「さあ、乾杯ですから、飲んで下さい、真雪さん。」
真雪は少しだけワインを口に入れた。酸っぱくて渋い、としか思えなかった。
「お口に合いませんか?」
「ご、ごめんなさい、主任。あたし、ちょっと・・・・。」真雪はテーブルにグラスを置いた。
「いきなりワインは早すぎたかな。」板東は頭を掻いた。そしてすぐに手を上げ、またウェイターを呼んだ。
「甘いお酒がいいでしょう?」
「しゅ、主任、も、もう結構ですあ、あたし、お水で十分ですから。」
「せっかく貴女の誕生日をお祝いしているんです。遠慮しちゃだめ。」
ウェイターによって運ばれてきたのはピンク色のカクテルだった。
「それなら大丈夫です。飲んでみて下さい。」
「すみません、気を遣っていただいて・・・。」真雪はグラスを手に取り、口に運んだ。とろけるような甘い味とチェリーの強い香りがした。その香りは口の中から身体中に広がっていき、真雪の全身に染み渡った。。
「どうですか?」
「これなら、大丈夫みたい・・・・。」
「それは良かった。」板東は満足したようにワインをまた一口飲んだ。