『BLUE』-41
「皆瀬、頼んだぜッ!」
「最後だからな、へばんじゃねーぞッ!」
背後で声援を送る下田達を尻目に、涼生は静かにゴーグルをおろした。
ギュッ、と両手で押さえると空気の抜ける音がした。一回、二回と軽くジャンプしながら深呼吸する。木本はもう5mを切ってきていた。
やがて、涼生は腰を落として姿勢をつくると、彼がタッチするのを見計らって威勢よく足元を蹴った。
トン。
綺麗な放物線を描いた涼生の身体は吸い込まれるように水面を切り裂くと、そのままの形を保った。
深間もさすがに良い飛び込みを決めた。二人のスタートは全く同時だった。
先に浮かび上がったのは深間だった。するりするりと抜け出すと、一気にそのスピードを上げた。
しかし涼生は離れなかった。チラリと深間をみると機敏な動作で手足の回転を上げていく。
会場はもう歓声の渦に包まれていた。
最初は深間のいる清新だけをみにきていた観客も、今は半々ぐらいに分かれて声援を送っていた。
「すげえ・・・」
応援席のタケルが唖然として言った。
「本当にすげえや!この前とは別人じゃんか」
「うん・・・」
「これなら、もしかして・・・」
半分の期待と不安をこめてタケルは言った。
水原は声がだせなかった。口に手を当てて必死で何かを堪えていた。瞬き一つで、零れてしまいそうな何かを。
「姉貴?」
タケルが心配そうな顔をすると彼女は大丈夫、と目を擦って笑った。
それまでは沈んだ感じに思えた水原の口調が、急に軽くなった。
「ねえ、タケルはどっちが表彰台に立つ姿を見たい?」
「それは・・・」
タケルはすこし考えるようにしていたが、やがてニコリと笑うと確信に満ちた声で言った。
「たぶん、姉貴と同じなんじゃないかな」
無我夢中で泳ぎながら、思考だけはやけにはっきりとしていた。真ん中のコースにいる深間との差は、僅か。半分の50mを過ぎても、その少しの差はなかなか縮まらなかった。
泳ぎおわったばかりの木本がコースに張りつくように顔を出した。じっとしていられなかった。他のメンバーも応援席の皆も、涼生に向かって声を枯らし続けた。
「皆瀬!あと少しだッ!」
「いいぞ、そのまま抜いちまえ!」
「ガンバ!皆瀬くん」
スタンドから、選手達から口々に声援が飛んだ。
ゴールは目の前だった。もうほとんど距離がない。
涼生は最後の力を振り絞って、グングンスピードをあげた。
15m・・・10m・・・8m
最前列に座っていた水原が静かに立ち上がった。
ぎゅっと握ったこぶしはガタガタと震えていたが、彼女は気にしなかった。
胸の前に両手を握りなおすと涼生にむかって呟いた。
「お願い・・・」
小さな声は、悲鳴のような歓声にかき消された。
水原はもう一度、叫んだ。
「負けないでッ!」
二人の手は、同時にゴールに触ったかに見えた。
ゴーグルを外した涼生が振り返り、スコア板をみた。ボードの一番上には、彼の高校が表記されていた。
そこに、皆瀬涼生の名前があった。