『BLUE』-34
「何を話してるの?」
とジャージ姿のまま近づいてくると、
「あれ、タケル?来てたんなら言いなさいよ」
と、腰を屈めて言った。
彼女の肩には先程のレースの勲章であるメダルが掛けられていた。誇らしげに輝いたそれは彼女の髪に触れて少し濡れている。
タケルと二言、三言話し込んだ水原がこちらを振り向くと、その表情は明らかに曇っていた。
涼生は何があったのか知っている。しかし今彼女に言えることは何もなかった。
「・・・頑張ってね。
上でみてるから」
絞りだすみたいにそれだけ言うと彼女はすぐ横を通り過ぎて去ってしまった。
「姉貴、一位だったのに元気なかったな。」
「うん・・・」
「兄ちゃん、非道い事でも言ったんじゃないの?」
「いや、俺は何も言ってない」
と、涼生は言った。
「でも俺が悪いんだ」
重い足取りで歩きだすと深間の言葉が脳裏に甦る。彼は、自分の気持ちを貫いた。水原に告白したと言った。
それがどんな形であれ、
時と場合を無視して、レース前の彼女を当惑させるような結果になってしまっても深間は構わずに言ったのだろう。
感情だけで動くのはあまり良い行為だとは思えない。だが、何もしてない自分はどうなのだろう・・・?
涼生は落ち着かないまま、不安定な気持ちでレースに臨む事になってしまった。スタート台を前にしながら集中できず、また違うことを考えている自分がそこにいた。
涼生が隣の4コースを見ると、深間はいつかと同じように目を閉じ、周りの雑念を振り払うかのように沈黙している。
―何も変わらない。
自分は何も変わってない。
あのジムでのレースから、深間との差が全く縮まっていないと涼生は感じていた。
だが、今はいくら腑甲斐なくとも自分を叱咤してくれる人はいない。
涼生は真っすぐ前を見据えると、半ば強引に気合いを入れ直した。
軽く頬を叩くとじんとした痛みが広がって目が覚める。そうだ、このレースのことだけに集中しなければ・・・
前の組が泳ぎおわり、いよいよ最終組のレースが始まろうとしていた。
思ったより時間が早まりプログラムの進行は15分ほどずれているらしい。
係員の一人が笛を鳴らすと、アナウンスが選手の紹介を告げる。
第3コースの涼生はそれに合わせて丁寧にお辞儀をした。
ぱらぱらと控えめな拍手が起こる。
その中で一際大きい声が叫ぶような声援を送った。
見ると木本が両手で手を振っている。そのあまりにバカでかい音を涼生は聞こえない振りをした。
普段は面倒臭がって何もやらない男なのに、一度やる気をだしたら歯止めがきかない。後ろにいた後輩の男子部員は気の毒に応援を強要されていた。
木本の気持ちは嬉しいのだが、目立たない程度にしてほしい。周囲の反応を伺いながら、涼生は心底そう思った。
盛り上がる池田高校の面々の中、騒ぎだした木本の横で彼女は深く俯いたまま顔を上げなかった。
本当は彼女の声援が一番欲しかったが、涼生は口を紡ぐと水原からそっと視線を離した。
係員が再び笛を鳴らすとスタート台に選手達が並ぶように立った。
同じ動作で涼生も一、二歩と階段を上る要領で進む。
「皆瀬くん」
ずっと前を見据えていた深間の目が涼生を覗いた。
かすかに笑った彼の口元は自身に満ちあふれている。涼生はまた聞こえない振りをした。
「さあ、飛ばしていくぞ」
乾いた音は風船が割れるみたいにして、二人の体は水中に沈み込んでいった。