故障-3
明くる朝、ケンジが起きて食卓についた時には、マユミはすでに出かけた後だった。ケンジは心に隙間が空いたような気がした。
「マユ、今夜は合宿所だよね。」
「そうよ。」母親が言った。「あの高校は、春の大会直前は合宿所にみんな泊まることになってるからね。」
「何で大会前なんだよ。」ケンジは独り言のようにつぶやいた。
「何?あんたに何か不都合でもあんの?」
「べ、別に。」
その日の部活の時間、スタート台のケンジにアヤカが話しかけてきた。「海棠くん、調子はどう?」
「え?ああ、別に普通だけど。」
「フォーム変えて、うまくいきそう?」
「知ってたのか。」
「マネージャーだよ、私。それに海棠くんのことを私、一番気にしてるんだからね。」アヤカの手がケンジの太股に触れた。それが故意だったのか、偶然だったのかはケンジには確認することができなかった。
「よーい!」ピッ。笛の音とともに、ケンジはスタート台から身を翻してプールに飛び込んだ。水中でのバサロの推進力はケンジのウリだった。スタート後の数秒で、誰よりも早く前に出ることができた。ケンジは直感で今日の調子がいいことを悟った。最初のプルで水が身体の横をすり抜ける感触がいつもと違っていた。いつもよりスピードがアップしていることを実感した。昨夜のマユミのマッサージのお陰かも、と思った時、左の二の腕に妙な違和感を感じた。しかし、どうしても新しいフォームを体得したくて、ケンジはさらに大きくリカバリーをした。しかし、次の瞬間、左腕全体に激痛が走った。「うっ!」あまりの痛みに、ケンジはその場に立ちすくみ、水の中に身を屈めて、左腕を押さえた。
「おい!ケンジの様子がおかしいぞ!」誰かが叫んだ。
「引き上げろ!」コーチも叫ぶ。「海棠くん!」アヤカの声も聞こえた。
プールに併設されたジムのレザー張りベッドに横になったケンジは、悔しさと腕の痛みに歯を食いしばっていた。額に大量の脂汗をかいている。
「大丈夫か、海棠。」コーチがベッドの横に立って言った。
「す、すいません、コーチ・・・ううっ!」また腕に激痛が走った。
「無理するなって、言っただろ。」
「・・・・・・。」
「しばらく休んでろ。すぐに医務の先生が来るから。」
「あ、ありがとうございます・・・。」
「家庭に連絡してやる。今、家には誰かいるか?」
「い、いえ、俺、自分で連絡します。だ、大丈夫です。足と右手は普通なんで。」ケンジはあわててそう言った。コーチは少し肩をすくめた。
「そうか、じゃあお前が連絡しろ。早めにな。」
「はい。」
簡単な診察が済んで、ケンジの左腕にシップ薬を貼り付けながら医務担当の女性職員は言った。「それほどひどい怪我じゃないけど、痛みはしばらく残るかもね。」
「あ、あの、大会は・・・。」
「明日なんでしょ?その状態で出場する気?」
「無理・・・ですよね・・・・。」
「痛みだけじゃ済まなくなるわよ。」
ケンジはうつむいてため息をついた。
「しばらくは、あまり動かさないようにするのよ。」
「わかりました。」
「痛みが引くまで少し横になってなさい。痛みが引かないようなら、一度病院で看てもらった方がいいかも。じゃあお大事に。」
医務員はそこを出ていった。
一人、ベッドに残ったケンジは、マユミを想った。自分がフォームを変えてまで記録にこだわったのは、一つはマユミに自分の成長を見てもらいたかったからだ。それを思うと自分が情けなくて、自然と涙が溢れてきた。その時、ジムのドアが開き、誰かが入ってきた。
「海棠くん、大丈夫?」アヤカだった。
「え?ああ。」ケンジはあわてて涙を右手で拭った。
「気を落とさないで。みんながあなたの分までがんばってくれるよ。」
「すまない、俺のわがままのせいで、大会に傷をつくっちゃって・・・。」
「今はゆっくり怪我を治すことだけ考えて。」
アヤカは毛布越しにケンジの胸にそっと手を置いた。
「そうそう、これ、栄養ドリンク。飲んで。」
「え?」
「体力、落とさないようにしないといけないでしょ。」
「ありがとう。」
そう言えばかなり喉が渇いていた。起き上がると、アヤカが差し出したボトルをケンジはすんなり右手で受け取り、喉を鳴らしてごくごくと飲んだ。
「横になりなよ。」アヤカはボトルをケンジから受け取ると、彼の背中に手を添えて、再び横になるのを手助けした。
「すまない、アヤカ。」ケンジはゆっくりと横たわった。
「ねえ、海棠くん。」アヤカが少し恥ずかしそうに口を開いた。
「何だ?」
「この前の返事・・・訊きたいんだけど。」
「え?」ケンジは戸惑ったように表情をこわばらせた。
「私のこと・・・・。」
ケンジは思わずアヤカから目をそらした。
「アヤカ、すまない。俺、おまえとはつき合えそうにないよ。」
「・・・・それって、海棠くんには好きな人がいる、ってこと?それとも、もうつき合ってる・・・・とか。」
「い、いや、つき合ってる人がいる、ってわけじゃ・・・ないけど。」ケンジは言葉を濁した。
「じゃあ、好きな人がいるんだ。」アヤカはうつむいた。
「ごめん・・・。」
「わかった。ごめんね、こんな時に変なこと聞いちゃって。」
「いや・・・・。」
ケンジの頭がぼんやりとしてきた。横に立つアヤカの姿がなぜかぼやけて揺れ動き始めた。「何だか、今になって疲れが出てきたみたいだ。」ケンジは強い眠気を感じ始めた。。
「いいよ。ゆっくり休んで。」アヤカの言葉を聞きながら、ケンジはそのままうとうとと眠り始めた。