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時は動き出した
【大人 恋愛小説】

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-1

 カフェまでの道すがら、いくつものスクランブル交差点を渡り、喧噪を抜けた。
 駅前ビルの二階にあるディーバというカフェに入った。
 私も時々利用するカフェで、床から天井に伸びる大きなガラス窓から、都会の喧騒を眺められる。
「カフェからカフェにハシゴするのも何か、変だな」
 真吾はそう言って肩をすくめ、私もつられて笑った。確かにそうだ。あのカフェで喋っていたって良かったのに。でも、こっちのカフェの方が落ち着く雰囲気である事を私は分かっていた。彼もそれを承知でこちらに誘導したのかも知れない。
 カフェに入ると約束通り、真吾が代金を払い、私はホットのチャイを頼んだ。
「俺のおごりだ、って言うのも何年ぶりだろうな」
「おごりじゃない。私のお金なんでしょ」
 そうだった、と真吾は頭をぽりぽりと掻いた。
 ホットコーヒーとチャイが載ったトレイを持って、窓際の席についた。ガラス窓からは少し冷気が伝わってくるので、私はコートをひざ掛け代わりにした。
「寒い?」
「うん、ちょっと」
「俺のカーディガン貸そうか?」
 そう言うと真吾は紺色の薄手のカーディガンを脱ごうとしたので、私は手で制止した。優しさまであの頃と同じで、苦しくて、息ができそうになかった。
「そういや居酒屋で、悪かったな。変なこと言って」
 忘れろと言った癖に、思い起こさせる。結局は忘れて欲しくないと言う事か。
「忘れろって言った癖に。私の返信メールだって、読んだくせに」
 彼は下を向いてふっと笑う。
「まさかの返信に、俺は狂喜乱舞だぜ」ふざけて言っている感じが否めないので、私はその言葉を無視する事にした。
 チャイを一口飲むと、喉から食道にかけて、熱い物で覆われた。
「そんで、旦那さんと、何で喧嘩したの?」
 居住まいを正して真吾は真面目な顔で私に訊く。彼の感情の七変化が何だか可笑しくて、私は俯いて少し笑った。ころころと表情を変えるのは、本当に子供のようだ。
「例の、不妊治療の事でさ。私は仕事もあるし、子供はもう少し後でいいと思ってたんだ。でも子供がすぐにでも欲しいって言ったのは彼なのに、全然協力してくれないから、いい加減ブチ切れた」
 だんだんと顰め面になって話す私とは対照的に、真吾は笑顔でこう言うのだった。
「恵が切れるなんて、珍しいじゃん。俺にビンタした事だって、一回しかないよな」
 如実にその事を思い出して私は苦笑する外なかった。
 高校時代、実家のベランダに出た私が目撃したのは、真吾の家の前で、真吾に抱き付く女子生徒だった。彼女が一方的に抱き付いているなんて思いもせず、私は逆上し、彼女が帰ったのを見計らって外へ出て、家に入る寸での所で真吾の首根っこを引っ張り、振りかぶった手でビンタをした。あの時の、真吾の驚いた顔と言ったら......。傑作だ。
「そんな事もあったっけ」
 うっすら笑みをうかべながら窓の外に目を遣った。赤い電車が一本、同じ目線を通って行く。静かな日常に、真吾が入り込んでいる事が、未だに不思議でならない。
「確かに、話を聞いてる限りじゃ、生活リズムが合わない旦那さんとの子作りってのはなかなか難しそうだな」
 真吾はコーヒーを口元に持って行き「あつっ」と声に出して言う。
「休みの日は、ダメなの?」
「休みの日は休みたいって。それに、子作りに最適な日って、あるでしょ。排卵日とか、そういうの」
 あぁそうか、と頷き、彼も窓の外に目を遣った。何かを考えているようにして手を口に持って行ったり頬に持って行ったり落ち着きなく、そして口を開いた。
「俺の奥さん、妊娠してたんだ」
 私は息を呑んだ。心臓が、ぎゅっと握られているように、痛い。
「恵の旦那さんと同じ、すぐにでも子供が欲しいって言ってさ。結婚もそうだ。すぐにでも結婚したい。何でも早く早くで、ろくに付き合いもせずに結婚したんだよ、実際」
 彼は自虐的に笑い、コーヒーを啜る。
「合コンで知り合ったんだ。まぁ出会いは何だっていいんだ。だけど引っ張る力が強いんだよなぁ。好きだー、好きだで結婚に持ち込まれて、避妊はしないでくれって言われて。俺は何にも意見をする権限も持てなかった。今のお前に少し、似てるな」
 すっと右手を差し伸ばしてきたので、私はふっと笑いながらその手をパシっと払った。彼は下を向いて口角を上げる。
「すぐに子供が出来たの?」
「うん、あっという間で拍子抜けした」
 してもしてもできない夫婦。何も考えずにできる夫婦。一体どこに差があって、こんな事になるんだろうか。額に拳を押し付ける。
「恵さ、お前、旦那の事、愛してるか?」
 伏せていた目を、すっとこちらに向ける。そこにはまるで答えがわかっているような、達観した表情がみて取れた。いつも自問自答している。今の昭二を愛しているか? 結局、今の夫の事は......。彼が目の前から姿を消したら、私は悲しいか? いや、きっといつも通りの日常を過ごしていけるのだろう。
「愛してない。いや、愛せてないって言うのかな。愛されてもいないと思ってる」
 彼は首の付け根をぐいぐい押しながら、頭を左右に傾けた。
「そうなってくると難しいよな。セックスが義務に変わる」
「そうだね」
 それ以上の言葉が見付らない位、的を射ていた。


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