6-2
真吾は再び目線を遠くへやり、静かに口を開く。「あの、雪の日」
「うん」
「あの日、俺が恵を手放さなかったら、俺たちは今でも一緒にいられたかなあ」
私は震える手でチャイのカップを持ち、一口飲んだ。「分からない」
もしも、万が一、なんて事を考えた所で、前に進める訳ではない。何の得にもならない。
逆に......後悔の念が芽生えてしまうのが酷く辛かった。私が彼を呼び止めていれば。雪を踏む足音を後ろから追っていれば。
「言える事は、全部過去だって事。二人とも、お互い愛する人が出来たって事。それが真実」
俯いたまま数回頷く真吾からは、表情が欠落していた。
「違いない。けど改めてそう言われると、何か悲しいな。俺ら、ずっと一緒だった筈なのにな」
走馬灯のように思い出がよみがえるとはこの事か、ふと思った。幼い頃からあの雪の日までの思い出が一気に駆け巡り、気づくと私は両の瞳から生ぬるい涙を流していた。物心がついた時には隣にいた。誰も邪魔しなかった二人の関係を、無惨にも引き裂いたのは自分たち自身なのだ。
「あ、ごめん」
鞄からティッシュを取り出してくれた真吾に言うと「俺こそごめん」と謝罪される。
「今の話をしてても結局俺ら、過去の話に戻っちゃうな。それだけ忘れられないって事なんだろうな。二人の事って。大切なんだよ」
私は無言で頷き、ティッシュで涙を押さえた。
デニムのポケットに入れてあったスマートフォンが振動した。着信は、昭二からだった。一度咳払いをしてから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『恵、今どこにいんの』
「カフェ」
『いつ帰ってくんの』
「分からない」
『あ、そう。俺明日出勤になったから。じゃぁ』
そう言って一方的に通話が切れた。電子音が単調に続く。これが愛し合う夫婦の会話な訳がない。
「旦那さん?」
「うん。今日は帰らなくていいみたい。その辺のビジネスホテルにでも泊まって帰るわ」
ふーん、と言いながらカップの底の方に残っているコーヒーをぐっと飲み干し、私に双眸を向けた。至極真面目な顔つきをしている。
「なぁ、俺んち、来ない?」
「は?!」
素っ頓狂な声を上げるわたしに、周囲の冷たい視線が突き刺さる。
「別に何もしないよ。嫁の仏壇があるからそんな気も起きないし。ビジネスホテルに泊まるよりは金もかからないし、いっぱい話もできるしさ」
私は既婚者だ。いくら幼馴染だといったって、過去に一線は越えている二人だ。これは断るべきだと思い「有難いけどそれは無理」と視線を合わせずに伝えた。
「どうして?」
「だって既婚者だよ? 私」
胸の奥底では、彼の家に行って、一晩中彼と昔話をしていたいと願っているのに、「既婚」という縛りが人としての常識を持ち出し、ガードをする。
「オールナイトでカラオケやってると思えば、気持ちも軽いでしょ? ボーリングでもいいや」
真面目だったはずの彼の顔はもう既に無邪気な笑顔に変わっていて、私が最終的には必ず首を縦に振ることが分かっているのだろうと、私は苦笑しかできなかった。
「今時ボーリングでオールナイトなんてやらないよ」
私は席を立とうとしたが、スマートフォンを持つ腕を掴まれた。
「俺は、一緒にいたいんだ。今日だけでいい。絶対何もしない。お前が傷ついてるのを見過ごしたくないんだ」
彼は一度も目を離さず捲し立て、私も目を離す事が出来ず、瞳が左右に揺れた。一瞬、カフェ内のBGMが途切れたような気がした。
「あの、あ、分かった。うん。じゃぁ、今日だけ」
そう言うと、子供みたいに「良かった」と笑顔を見せると、飲み干したドリンクカップが載ったトレイを返却スペースへ置きに行った。
お互い愛が消えうせた夫婦で夜を過ごすのと、お互い思いが残ったままの幼馴染と夜を過ごすのでは、どう考えたって後者が魅力的に決まっている。
それが一般常識から少し外れた行動だとしても、だ。