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時は動き出した
【大人 恋愛小説】

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-1

 手も繋がなくなった。高校三年の二月の事。白い雪はツツジの枝を隠す程に深く降り積もり、それでもなお、空から音も無くはらはらと舞い落ちて来る。
 私は制服の上に紺色のピーコートを羽織り、桃色のマフラーに首を埋めていた。
 指先が、かじかむ。

「寒いだろ、手ぇかして」
 少し前まではそう言って、先の先まで冷え切って青白くなった私の手を握り、真吾は自分のコートのポケットに、一緒に入れてくれた。
 だから私は、手袋を持っていなかった。彼が握ってくれるのは片手だけなのに、もう一方の手まで暖かく感じるのが不思議で、幸せで、くすぐったくて、嬉しかった。

「幼馴染だからって、ずっと一緒にいるなんて、無理なんだ」
 家の門前で、真吾は私に頭を下げた。唐突な言葉に狼狽え、言葉が出ない。
「恵に、ついて行ってやれなくて、ごめん」
 何か言い返そうと必死に言葉を探したが、雪の中に埋もれる小さなピアスでも探すように困難で、結局私は何も言えず、彼は雪を踏む足音を残して、隣の家の門をくぐり、玄関の中へと消えた。戸が閉まる、ガシャリと言う音が大袈裟に、しんしんと降り続く静かな雪の夜を突き抜けた。
 呆然としたまま自室へ向かった事に自らが気付いたのは窓の向こう、彼の部屋の明かりが、彼の影をカーテン越しに映じていたからだった。いつも隣にあった、当たり前の温もりを喪失した感に、ひとしきり涙を流した。
 それから卒業するまで、顔を合わせる事はあっても、クラスの違う真吾と私は言葉を交わす事が無くなった。
 その春、私は横浜にある国立大学に合格し、一人暮らしを始めた。真吾は地元の富山にある、私立大学に進学した。


「お母さん、私の卒業アルバムってどこにしまってあるんだっけ?」
 母は「うーん」と頭上に朧げな視線をやって、電球のマークが頭の上に咲いた様に「あ、二階の納戸じゃないかな?」手をパチンと叩いた。
 私は大学を無事卒業し、念願だった地方公務員となり、役所勤めをしている。
 付き合っている昭二が「若い時の恵が見てみたい」と言ったから、卒業アルバムを探しに、久々に富山の実家に帰ってきていた。
 母と一緒に二階の納戸に入ると、本棚の一角に中学と高校の卒業アルバムが仲良く並んでいた。
「あぁ、これこれ」
 少し埃を被っていたアルバムを私がパンパンと叩くと、母は唐突に咳き込んだ。
「ちょっと恵ぃ」
「ごめんごめん」
私は大袈裟なぐらいに顔を覗き込んで彼女の顔色を伺ったが、すぐに笑顔を見せた事に安堵し、足取りも軽く階下へと降りた。持ってきた紙バッグは口を開けて待っていて、そこに入れるつもりだった。
「どれ、ちょっと見せてよ」
 言いながら手を伸ばしている彼女の言葉にあまり気乗りがしなかったが、高校の卒業アルバムは既に開かれていたので仕方がない。中学のアルバムは先んじて紙バッグに突っ込んだ。
「あ、真吾くんだ。よくうちでお鍋食べたよね。懐かしいね。彼ももうすぐ、家を出るらしいよ」
「え、まだ隣の家で暮らしてるの?」
 留年でもしていなければ、もう大学は卒業しているはず。とっくに一人暮らしでもしているのだと、疑いなく思っていた。
「もうすぐ結婚するんだって。最近はちょくちょく婚約者の方が出入りしてるみたいで、堺さんも喜んでたっけ。恵ちゃんはどうしてる?って、心配してたよ、堺さん」
「あぁ、そう」
 妙に胸がざわついた。アルバムを眺める母をそのままに、何かに吸い寄せられるように、気が付くと隣の家の門をくぐった。会いたいなんてこれっぽっちも思っていなかったはずなのに、身体は勝手に動いて行く。止められない。鈴虫があちこちで羽を揺さぶる音がこだましている。
 会ってどうする。会って何を話すんだ。自分に問いかけながらも足は動き、手はインターフォンに伸ばされて、黒く四角いボタンに人差し指を押し付けた。

 呼び鈴に対応したのは、真吾本人だった。
「あ、久しぶり」
 私は平静を装い、ひらりと右手を挙げた。
「おぉ、元気だった?」
 真吾も苦々しい笑みを見せ、お互い探り探りの挨拶だった。私は彼の目を見る事が出来ず、ラガーシャツの開いた襟をずっと見ていた。
「結婚、するんだって?お母さんから聞いた」
「あぁ、まあ」
 その返答を待たずして、二階に続く階段から、清楚なスミレ色のワンピースを着た美女が降りて来た。私と目が合うと、にっこりと微笑み「どうも」と発した声もまた、澄んだ小川の様に美しかった。
 左目の下に泣きぼくろがあって、可憐さの中に潜む妖艶さを感じ取った。
 私はうまく作れていないであろう笑顔で彼女に会釈をし、真吾に「おめでとう」と言った。
 真吾は返事に窮している様子だったので「そんだけだから。じゃ」と言ってその場を立ち去ろうとした。背後から、強い調子で声をかけられ、私は足を止めた。
「待って恵、俺らも横浜に出るんだ。俺が転職してそれで」
 横浜。とひとくちに言ったって広い。偶然に会う確率など零に等しい。
「あ、そうなの。どこか出会えるといいですね。それじゃ」
 よそよそしい言い方をするつもりはなかったのに、すげない態度が滲み出る。どこか出会えたらなんで考えていない。会ってしまったら、今みたいに口から心臓が飛び出る程ドキドキしてしまうのだから。その時彼はもう、あのスミレ色の服を着た女性の、旦那さんなのだから。
確かめたかっただけなのかもしれない。彼は、彼の人生を生き、私の事は思い出としてしか認識していない事を。自分に言い聞かせたかっただけ、ただそれだけで。
 思い出は胸に秘めたまま。大人はそう言う事が出来てこそ、オトナなのだ。




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