夢拾参夜-1
第零夜
こんな夢を見た、言わずと知れた夏目漱石の名作『夢十夜』の冒頭である。ぼくはこれから、ぼくの見た拾参夜の夢を綴る。
夢は不思議だ。彼の有名なフロイトや、名誉ある心理学者でさえ夢を正しく解釈することは出来ていない。昔から夢は神聖視されていたようで、『初夢』や『正夢』などが例に挙げられる。中国では、『一炊の夢』『胡蝶の夢』という作品もある。ただ、ぼくが言っておきたいのは『夢は綺麗だけではない』ということだ。これだけは、肝に命じておいて欲しい。
ぼくは夢判断や、夢占いが嫌いだ。第一、当たった例がない。一時、心理学も学んだ。専門ではないので、大まかに学んだだけだが。しかし、フロイトの『夢判断』にはほとほと嫌気が差した。何故なら、夢を全て性的なものに置き換えているだけだからだ。
第壱夜
こんな夢を見た。
ぼくは、ある屋敷を訪ねなければならなかった。ぼくは自宅からバス、電車を乗り継ぎ、正に田園風景の広がる田舎に辿り着いた。まるで、昭和初期の映画に使われるような駅だった。勿論、一日数えるほどしか本数も出ていない。とにかく駅員に切符を手渡し、畑に挟まれた道に沿って歩いていく。人は全くいない。家はちらほらとあるのにも係わらず、子供さえ歩いていない。しかし、黙々と歩いていくとその屋敷はすぐに解った。一軒だけ家ではなく、確かに屋敷だ。
「遅かったね、ずっと待っていたのに」
ぼくは愕然とした。世の中には、『自分と同じ顔の人間が三人はいる』と聞いたことはあったが、実際体験するのは初めてだった。あまりにも似過ぎている。彼は、縁側で素足を伸ばしていた。時折、涼しげな風鈴の音が耳に入る。
―――チリン。
ぼくが呆然としていると、彼はぼくの方に裸足のままで走り寄ってきた。それはもう、満面の笑みで。
「遠かっただろ、疲れてないかい?」
「大丈夫、それより君は」誰なんだい、と訊こうとした瞬間だった。
「あはは、君はやっぱり変わってないな。本当に愛想は無いし、話をすぐに変える。気になったことはすぐに疑問を持つし……、昔からよく注意されたね。それにしても君の周りは目まぐるしく変わっているのに、君はいつまでもそのままだ。雀百まで踊りを忘れず?」
けらけらと笑いながら、彼はぼくの肩を軽く叩く。何故、彼はぼくのことをそんなに知っているのだろうか。
前に一度、会ったことがあるのか?
―――いや、そんなはずは無い。
「ぼくが誰だか、そんなに気になる?」
声を上げず、口元を歪めて笑う。まるで、人を食ったような。
「答えは簡単、ぼくは君だよ。そして、君はぼく。だから、ぼくは君を誰よりもよく知っている。誰よりもよく見てきたし、何より自分自身だからね」
ぼくは怯んだ。冷静に考えれば冗談のように聞こえるが、ぼくには考える余裕さえ無かった。背格好、顔貌共に同じ。鏡を見ているような錯覚さえする。しかし、態度が全く違う彼をぼくだと認めたくは無かった。第一、ぼくはそんなに薄く軽い人間ではない。彼をもう一度見ると、今度は薄笑いさえ浮かべている。
「おいおい、自分自身に怯えるなよ」
「別に、怯えていない。ここには、君以外いないのか?」
「そうだね、ここにはぼくだけ。昔は君も一緒に居たけど、まるでぼくを閉じ込めるようにして出て行った」
「………」
そんな覚えは無いが、何故だかとても申し訳ない気がした。段々と、彼を閉じ込めたような気もしてくる。「別に、ぼくだって何とも思っちゃいないさ。君と一緒、ぼくは悠々閑々悠々自適にやってきたしね。但し、ぼくは君の持っているものを何一つ持っていない。別に欲しくもないけどさ。そして、君はぼくの持っているものを何一つ持っていない。ま、未完成な所が人間の魅力だけどね」
何かの謎かけじゃないか。しかも、彼の言い方といったら演技がかっている。
「何だよ、それ……」
「それくらい自分で考えろよ、君はぼくだろ」
そして、軽やかな足取りで逃げていく。ぼくは、とにかく彼を追いかけた。もしかしたら、彼はぼくかもしれない。それは同時に、ぼくが彼だということ認めることになる。だが、そんなことに構っていられない。ここで彼を逃してしまったら、ぼくはぼくでなくなってしまうだろう。ぼくは確かに、そう思った。当の彼は既に茶室の畳を抜け、軋む階段を駆け上る。ぼくも靴を履いたまま必死でそれを追い、黒光りする階段の手摺りに頼り息を荒くして上っていく。
「待て……っ、待てよ!」
顔色一つ変えていない彼は、くるりと振り向いた。そして、ぼくに向かって微笑みながら手を伸ばす。
「その言葉をずっと待っていた」
ぼくは手を伸ばし、彼の手を取った。すると、彼はぼくの前から姿を消した。ぼくはこれで良かった、と何故か妙に納得した。
―――あのぼくは、ぼくになったのだ。
思う、彼の掌の感触を振り返りながら。彼の立っていた場所に触れながら。彼の笑顔を思い出しながら。そういえば、笑うことを忘れたのは何時からだろう。そうだ、心から笑おう。あの、ぼくに負けないくらいに。
目が覚めた。