夜半の月-1
香木が焚かれ、穏やかな香りがこの部屋を覆っていた。
一女房(貴族に仕える女性)の身分にしては広い部屋で、わたしの目に入らないようにして、部屋の隅には若い女官が一人控えている。
わたしは彼女をさと、と呼んでいる。本当の名はわたしも知らないのだ。
歳は、十五位になるのだろうか。わたしは、そのちょうど倍だ。
外出するにも、着替えをするのも、彼女の手伝いがなければ出来ない。
袿(うちき:何枚も重ねて着る衣服)を羽織るのも、わたし一人では難しい。
今は大した用事がないので、わりと楽な服装をしているが、用事によっては着替えるだけで相当な手間がかかってしまう。
だから、彼女には基本的にはいくら感謝しても感謝しきれない程世話になっている。
時々、煩わしくも感じてしまうのだが……。
文机の上には、巻紙と筆が置かれていた。
巻紙の白い色が目に入ると、何かに追い立てられるような気分になった。
この巻紙に物語を書き連ねていくのが、一番のわたしの使命でもあり喜びでもある。
紙は、貴重品だ。
白い紙に思うさま何かを書き連ねるという事が出来るのは、限られた人間だけだ。
そういう意味では、わたしはかなり恵まれているに違いなかった。
だが、今は少々苦しいかもしれない。
昔から、何かを書くことが好きだった。
父が学者で、漢文や漢詩を読みこなす事が仕事だったから、家は書物の山だった。
わたしも父に文字を教えられ、書物に触れ合ううちに、自然と読み書きが出来るようになった。
やがて、いろんな書物を読むうちに、自分でも書きたいという気持ちが沸き上がった。
それで、作った漢文や漢詩を友人に見せたりしたのだが、これはまるで受けなかった。
漢字は難しいのである。誰でも読める、というものではなかったのだ。
だが、読んでもらえなければ、書く意味が無い。書くことが空しくなった。
ある時に、平仮名を使って書いてみた。これは、友人に読んでもらえた。
平仮名は漢字より文字が少ないし、読みやすい。これだと思った。
平仮名は読みやすいが、女子供の書く文字だと言われている。
それがどこか癪に障って、いまひとつ使う気になれずにいたのだ。
構うものか。わたしは都合のいい事に、女なのだ。
いくら出来が良い書物でも、読まれなければ意味が無い。
学者だけではなく、皆に読んでもらいたかった。そういう話を書きたいと思った。
書き連ねていくうちに、友人から庶民にまで読み継がれ、喜ばれるようになった。
喜ばれるのが嬉しくて、暇さえあれば、巻紙に何かを書いていた。
それが人づてに伝わったのか、ある人物に呼び出された。
娘に学問を教えてやって欲しい。そう頼まれた。
それから、わたしはこの部屋で、学問を教えながら物語をまた書き連ねているのである。