月虹に谺す声-1
神山月郎と姉の郁子が生まれた家は旧華族の家柄で、その生活は裕福な物であった。とは言え、母親の祥子は早くに他界し、事業に忙しい月郎の父親啓治は数人の使用人に二人の世話を任せ、屋敷にいることが少なく、その為、幼い頃の姉弟は広い洋館の中で二人きりで遊ぶことが多かった。神山の屋敷は郊外近くにあり、屋敷の敷地そのものも広い為に友達もなく、また、中学に上がるまで月郎の父親は二人に家庭教師をつけて英才教育を受けさせていたので月郎と郁子の世界は狭く、他人との距離を掴めずに、特に月郎は内向的な少年に育っていった。
姉の郁子が先に中学に入学し、有名な私立の女子校へ通うようになると月郎は広い屋敷に一人取り残された気がした。そして、ある意味母親代わりである郁子が学校から戻るのを心待ちにした。その事が理由の一つなのだろうか、元々厭世的な性格の郁子は家で自分の帰りを待つ弟の為に部活などもせず、学校を終えると待機している自家用車にそそくさと乗り込んで家路を急いだ。ただ、この頃から郁子はシニカルな表情が表れ始め、その言葉にも毒を含むようになっていった。
やがて月郎も中学へ進学することとなったが、内向的な性格が災いしてか、学校で友人も出来ず、姉の郁子がするように部活もせず、授業が終わるとすぐに帰宅するようになり、広い屋敷での二人の世界は崩されることはなかった。
「二人ともホテルへ行くのかしら?」
自室の窓から外を窺い、郁子はそう呟いた。メイドの一人と抱えの運転手が、郁子用の送迎車で出掛けるのが見えたのだ。
郁子の部屋で音楽を聴こうとしていた月郎は、黒い円盤を慎重に取り出しながらその呟きに応じた。郁子が父親にねだって買ってもらったドビュッシーのピアノ曲集であったが、もっぱら愛聴しているのは月郎の方であった。郁子の部屋にはそうしたクラシックのレコードが沢山あった。
「姉さん、変なこと言わないでよ…」
針をレコードの上に慎重に置きながら、月郎は露骨に顔をしかめた。郁子はこうしたあけすけな物言いで月郎を困惑させることが多かったが、今は月郎には頓着せず、不貞な使用人に対して冷たい蔑みの目を向ける。
「変な事って何よ?」
思い出したように振り返ると、郁子は退屈そうに体をベッドの上に投げ出した。
ぷつぷつとレコードの回る音が聞こえ、やがて繊細なピアノの音がゆっくりとこぼれ始めると、月郎は肩をすくませて革張りのソファーに身を沈めた。
「ホテルとか、そんなこと言わないでよ…」
口を尖らせる月郎。郁子は体を横にして背中を丸めると、面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
「別にホテルが変な事じゃないでしょ。ホテルですることが変なことなんでしょ」
そう言うと郁子はポケットを探り、中から小さなビニールの包みを取り出すと、月郎の方に投げた。包みが月郎の足下に転がるが、月郎はそれが避妊具であるとは分からなかった。
「何これ?」
首を傾げる月郎。郁子は溜息を吐いて応じる。
「コンドームよ、こ・ん・どーむ。セックスするときに使う子供が出来ないようにするお呪い(まじない)。それが私の通学用の車に落ちていたの。これだけ言えば月郎にだって分かるでしょ。あの二人が逢い引きした次の日に落ちていたんだから…」
姉の言葉に、月郎は返事に窮した。一瞬、脳裏に体を絡め合う男女の姿が思い浮かび、その顔がどういう訳か自分と姉の物にすり替わる。
「月郎が顔を赤くすること無いじゃない。それとも、変な事でも想像したのかしら?意外とおませさんね」
そう言って破顔する郁子。人を蔑み、値踏みするような意地の悪い笑顔であった。月郎はその笑いに気分を害したが、それが郁子の遊びなのだと思って何も言い返さなかった。 しかし、郁子はすぐに新しい遊びを思い付いたのか、寝台から立ち上がると、ソファに座る月郎の横に体を割り込ませた。女の体の柔らかな感触と生暖かい体温、そして甘い香りに触れた月郎は体を強張らせて身じろぎした。
豊かな乳房をブラウスの生地越しに押し付け、郁子は月郎の太股に細い指を走らせる。
「ごめんね、月郎。怒った?」
月郎の耳をくすぐる姉の囁き。
「お、怒ってなんかないよ…」
視線を逸らし、顔を背ける月郎。
「姉さんは月郎が好き。だって、この世界は私達二人しか居ないのだもの。月郎のことが理解できるのは世界で唯一私だけ。私のことを理解できるのは世界で月郎ただ一人だわ…」
姉の囁きは月郎の耳に心地よかったが、反面その緊張感にいたたまれなくもあった。月郎はわざとらしく咳払いをすると立ち上がり、逃げだそうとするが、郁子は月郎の腕を引き、ベッドの上に押し倒した。
「この世界は光に溢れ、眩い空には雲が流れ、山には緑が溢れ、海は生気に満ちている。人はコンクリートの町に溢れ、毒を吐き出しながら世の中を呪い、隣人を妬み、己を憐れむ。人が世界を蝕む存在だから、美しいものは次第に醜く歪んでいくの。空は赤紫色に濁り、山は腐った石のように黒ずむ。だから私は世界を切り離して月郎とこの小さな空間で静かに時の流れを感じていたい。ヒトなるものと決別をしたい…」
郁子の柔らかな唇、まるで蜜で濡れた花弁のような唇が呼吸と共に小さく震え、月郎の唇に。