月虹に谺す声-3
郁子が妙な話を持ち出してから幾日が過ぎただろう。あれ以来郁子はそうした事には触れず、まるで忘れてしまったかのように普段通りの日常を送っていた。
月郎はもしかするとからかわれたのではないかと憤慨する反面、奇妙な門をくぐって異世界へ行くという、そんな恐ろしい事を考えなくてすむことに安堵していた。
そんなある日、朝が目が覚めるとアーチ型の大きな窓が開いていて、柔らかな陽光がベッドの上に差し込んでいた。風にそよぐレースのカーテンを見て、月郎は首を傾げる。窓は閉めて寝た筈なのだ。
ふと気が付くと、何時から居たのだろう、郁子が書棚の前に腕を組んで立っていた。物静かで、物憂げなかんばせ。小脇には黒い革の手帳を抱え、底の見えない黒い瞳でまんじりともせずに月郎を見ている。
「お早う、姉さん」
月郎は戸惑いながらも姉に声を掛けた。
「こんな朝早くから一体どうしたんだい？」
月郎の問い掛けに、郁子は返事をしないまま寝台の傍らへ椅子を移動させると、そこに腰を下ろした。そうして、面白くもなさそうに手帳を投げ出すと、中を開いてみるように促す。
「それより、出掛ける支度をしなくて良いの？そんな恰好して、学校の制服はどうしたんだよ？」
一応手帳を手に取りながら、月郎は郁子に質した。しかし、郁子は溜息を付いてかぶりを振った。
「今日は生理が重いから学校を休むわ…。月郎も付き合いなさい。学校には誰かに電話を入れさせておくわ…」
「また、いい加減なことを…」
自堕落な姉の物言いに、月郎は呆れた声を出すが、郁子はそんな弟の非難めいた声には頓着しなかった。おもむろに立ち上がると、スカートの裾を持ち上げてみせる。
「本当に生理なのよ。生理バンド、見せてあげようか？」
言われ、月郎は赤面し口ごもった。
「ば、莫迦なこと言わないでよっ！」
「あはぁ、月郎、赤くなってる…」
姉にからかわれ、顔を背ける月郎。
「それで、この手帳がどうしたんだよ？」
「その手帳はね、母さんが死んだ後、母さんの部屋で見つけた物なの。そこに、あの白い虹のことが詳しく書かれているわ。そして、もうすぐ狼の門は私達の前に姿を現す…」
今まで忘れようとしていた門のことを突きつけられ、月郎の顔は一瞬凍り付いた。そして姉に言われるままに手帳をめくる月郎。その手帳には、母親祥子の生まれ故郷から失踪に至るまでの事が日々の雑事に紛れて書かれていた。付箋が入っているのは郁子の仕業だろうか、月郎は今まで知らなかった母親の半生を、黒い手帳から教わった。
姉弟の母親祥子は人里離れた山村で生まれた。その村には狼を祭る神社があり、村民は自身を大口の真神、即ち狼の子孫だと信じて疑わなかった。神の眷属としての自負心からか、村は他者を遠ざけ、排他的な生活を長く続けてきた。
そんな村に、学生だった月郎の父親啓治は仲間と共に物見遊山の末に迷い込み、祥子と出会い、見初めたのだった。半ば強引に、拐かし半分に祥子を村から連れ出すと、啓治はそのまま祥子を自分のものにしてしまった。その後、祥子は郁子と月郎をもうけたが、人生に憂いを持ったまま日々を送っていた祥子は村の外の生活に馴染めないままだった。やがて、天啓のように門の呼び声が聞こえるようになり、内なる獣の声に次第に抗えなくなっていったのだった。
手帳には、次に門が自分を呼べば、自分は家族を捨ててその門へと向かうだろうと、そこまで書かれて終わっていた。
「月が満ち始め、満月に近付くほど、私の中で何かが暴れ出すの。生理が始まって、感覚が物凄く敏感になっているわ。ちょっと触れられただけで感じてしまって、体中の毛穴から汗が噴き出しそうになるの。ぞわぞわと体の内側に毛の塊が育っていくような、そんな気分だわ。でも、それも、もう限界…。丁度今日は満月。もし雨が降れば、月の光を背にして虹が生まれる…。その下には…」
その日が運命の日であることはすぐに理解できた。昼過ぎから雨が降り始め、澱んだ雲の切れ間から時折太陽が覗くという奇妙な天気だったからだ。それは夕方まで続き、西の空に熟した柿のような太陽が沈むと、反対側の山の間から白くて巨大な、鏡のような月が姿を現した。
暗くなり始めた空を、郁子は無言で見つめた。
Moonstrike、月に当てられると言う言葉があるが、実際月の引力は人間の心に大きく作用するのかも知れない。月が昇るに連れて郁子の感情は高ぶり、踊り出す心臓を必死に押さえ込んでいた。言葉は発しなかったが、それは傍目にも分かるほどで、額には脂汗がにじみ出し、頬はやけに紅潮していた。白磁のように白い肌は上気し、唇がやけに赤く見える。
「お願い、何か…何か音楽が聴きたいわ…」
言われて月郎はレコードを物色した。特にどんな曲をと言うわけではなかったが、スピーカーから流れ出た曲はベートーベンの月光であった。
曲が流れ出すと郁子は感極まった様子でその場にへたり込み、月郎が慌てて駆け寄ると、郁子は月郎の腕を引いて体を引き寄せ、その懐に顔を埋めた。
「このままじっとしてて…。お願い…」
月郎の腕の中で、郁子は懇願した。月郎は黙って頷くと、二人はそのままただ時間が流れゆくのをじっと待った。