月虹に谺す声-2
全ての事象に永遠という言葉は存在しない。しかし、郁子は子供部屋の小さな王国を、永遠に存続させたいと願っていた。その事が却って二人の世界にほころびを生じさせることとなるのだが、郁子はその事に気付いていなかった。いや、永遠なるものが存在しないと理解していたからこそ、郁子は小さくて脆い王国に見切りを付けて、新たに堅牢な世界を欲したのかも知れない。ヒトならぬ、ケモノの幽界(かくりよ)に…。
「月虹って、知ってるかしら?」
郁子は窓の外を眺めながら問い掛けた。
「げっこうって、月の光じゃないの?」
郁子は振り返らずに続ける。
「太陽が虹を作るように、月も虹を作るの。満月の明るい月が、白い虹を作る時があるのよ」
言われて、月郎は何故郁子が突然そんな話を始めたのか首を傾げた。
「姉さんはその白い虹を見たことがあるの?」
「一度だけ、母さんが死んだ日に…」
郁子の口から母親のことが出て、月郎は少なからず驚いた。月郎が幼い頃、月郎の母と郁子が突然屋敷から姿を消した。郁子は近所の山中で泣いているところを発見されたのだが、月郎の母親は見つからずじまいであった。付近には山犬が多く出没しており、山中では月郎の母親の衣類が犬の足跡で踏み荒らされた中、引き裂かれた状態で発見された。唯一の発見者であろう郁子はその日何があったのかは口をつぐんで一切喋らず、郁子が冷たい表情を見せるようになったのはこの頃からだった。恐らく月郎の母親は山犬に襲われ、郁子はその時のショックで話をしたがらないのだろうと考えられた。それが、今まで何も喋らなかった郁子が突然母親のことを口にしたのである。
「あの日、白くて大きな月が背後に出ていたわ。ふらふらと屋敷を出ていく母さんを見て、私は不安に掻き立てられてその後をつけた。母さんは私に気が付かずにどんどんと山の中に入っていったの。暗い山の中だけど、私達の足下だけは月の光に照らされていた。そして、母さんが向かった方向には白い虹が出ていたわ。どれくらい歩いたか分からないけれど、その虹の下にやがて狼に守られた大きな門が現れた。それ自体が白くぼんやりと輝いた不思議な門で、その扉が音もなく開くと、母さんは扉の向こうから溢れ出した白い光に飲み込まれ、そして………その姿は大きな狼に変貌した」
「そ、そんなまじめな顔で冗談言わないでよ」
「あの門は、あの門の向こうにはヒトの世界ではないものがあるのかも知れない。あの門の向こうにはヒトを捨てた者の世界がある。狼になった母さんはそこで初めて私の存在に気が付いたのか、木の陰に隠れて震えている私を悲しそうな瞳で一瞥して、やがてその門の向こうの中に消えていった」
「本当の話なの?なんで突然、そんな話をするのさ?」
「その門を探して、その門の向こうの世界を覗きたくなったから」
「母さんを探したいの?」
「ふふん、私達を捨てたあんな女の事はどうでもいいわ。私はヒトの世界に愛想が尽きたの。門の向こうに別の世界があるのなら、私は其処へ行ってみたいわ…」
「どうやってその門を探すんだよ?」
「私達の血がその場所を知っているわ…」
「そんな出鱈目な…」
「出鱈目でも何でも良いわ。もしその門が本当に現れたなら、勿論月郎も私と一緒に向こうの世界へ行ってくれるわよね?」
そう言って郁子は月郎の顔を覗き込んだ。問い掛けと懇願、そしてどこか確信を得ている瞳が月郎の顔を映し出す。
しかし、月郎には即答することが出来なかった。逡巡し、やがて首を縦に振る月郎。 月郎には郁子の話がにわかには信じられなかったのだ。果たしてそんな門が現実に現れるのか?そして、その門の向こうには果たして何があるのか?それが二人にとって楽園なのか?いくら考えても答えは出なかった。見たことのない物の、聞いたことのない話なのだから不安に思うのは当たり前である。しかし、一つだけはっきりしていることが、そう、たった一つだけあった。
「姉さんがそう望むなら…」
不安を払拭する為、自分に言い聞かせる為、月郎は小さく、しかし決然として呟いた。