19.太田塁-1
「おい、貧乳」
矢部君の後ろから声を掛けると、智樹が俺のふくらはぎにローキックをいれた。力の加減というものを知らない奴だ。
「水着姿なんて初めてなんじゃないの? ちょっと立って智樹に見せてやれよ」
そう言うとあけすけに顔を赤らめて「嫌だよ、何それ」とぺちゃんこに潰れた体育座りになってしまった。
「俺はあれだ。いいんだ。見る時見れるし、だし」
歯切れの悪いデレ男に俺はローキックを仕返した。
「二人でさあ、水の掛け合いでもしてきたら?」
矢部君はものすごく高いところにある智樹の顔を眩しそうに見上げて、智樹が頷くと二人、手を繋いで海に向かって行った。
俺は傍にあったコーラの蓋を開けながら、二人を眺めていた。眼鏡、外さないでいっちゃったなぁと思いつつ。
幸せそうに、手を繋ぎながら水の中に入って行く二人。時々、見つめ合って何かを話し、笑って。そこに俺はいない。智樹の唇に誓った。このブレスレットにも誓った。俺は二人の幸せを、目の前で眺めていられる。これだけで十分。彼女なんていらない。この二人が幸せなら何もいらない。俺はあの日、流れ星に誓った。誰にも言わなかったけれど、俺は私欲なんて誓っていなかった。矢部君と智樹が、永遠に幸せであるように。そう誓ったんだ。だからこうなることは必然なんだ。俺がお願いしたことを、神様が見過ごすはずが無い。
向こうから、グラマラスな拓美ちゃんと、ちょっと肉付きが良くなった至が戻ってきた。
「あれ、塁がお留守番?」
「お二人は入水自殺しに行きました」
ペチンと至に頭をはたかれた。彼は「よいしょー」と声に出して俺の隣に座った。腕についていた砂を払うと、レジャーシートがサラサラと音を立てる。
「前に塁と二人で呑んだだろ? あん時、君枝ちゃんは塁の彼女だとか言ってたけど、あの後、塁は君枝ちゃんに振られたのか?」
至の完全なる勘違いに俺は笑うしかなかった。
「俺は矢部君の彼氏になった事は無い。彼氏、みたいな関係にはなったけどな。少なくとも矢部君は智樹の事、引きずってたからさ。俺はそれ以上踏み込めなかったんだよ」
至とこんな話をするのはお互いが社会人になってからだよな、と思う。いつまでも女っ気のない俺の事を心配しているんだろう。ちらりと隣の顔を見ると、至って真面目な顔で俺の話を聞いている。
「なるべくしてなった、そういう事だよな? 塁は何かを我慢してるとか、そういう事じゃないよな?」
「塁は、君枝ちゃんの事、本気で好きだったんじゃないの?」
畳み掛けるように言う拓美ちゃんの顔をみて、俺は自嘲気味にフッと笑った。
「好きだったよ。今だって好きだ。でも、あいつの目はずっと智樹を向いてる。俺は矢部君に、幸せになってもらいたいし、智樹にも幸せになってもらいたい。だから我慢してる。こういうのって、変か? こういう我慢は良くないのか?」
二人はタイミングを揃えたみたいに首を振るので、可笑しくて声に出して笑った。拓美ちゃんが遠くを見て言う。
「それが塁の幸せなら、それでいいと思うよ。何か塁って、子供みたいに見えて、案外中身は大人なんだね」
案外は余計だ、と言ってコーラを一口飲んだ。
矢部君と智樹が戻って来たのはそのすぐ後で、俺は入れ違いに矢部君を連れて海に向かった。
「矢部君と心中してきていいか?」
振り向いて言うと智樹は「恨み殺す」と目で殺しにかかった。
「なあ、矢部君さ、結婚したい、子供欲しいって、言ってたよな」
ギョッとした顔で俺に顔を向ける矢部君は「出し抜けに何ですかそれは」と俺から少し距離をとった。
座り込んだ波打ち際で俺は、寄せては返す波で、薄汚れた貝殻を洗っていた。
「蒸し返すようで悪いけどさ、親父さんにレイプされた事、忘れられる方法があるような気がするんだよ」
矢部君がじっと俺の横顔をみているのを感じる。聞く気はありそうだ。
「いいか、親父さんにされたのは、親父さんの快楽のためのレイプだ。快楽のためだ。征服欲を満たそうとした行動だ」
ごくり、ツバを飲んだ。きっと矢部君も同じ事をした。傷をえぐる事にならなければ良いんだが。俺は続ける。矢部君の強さを信じて。
「智樹は違う。きっと矢部君との将来を見据えてる。子供を作るためのセックスだ。快楽のためじゃない。支配の為じゃない。愛する人と、愛する子供をつくるためのセックスだ」
弱々しいけれどしっかりとした声で「そうかな」と漏らす。
「違いは分かるよな? 歴然だよな?」
今度は口に出さずに頷いた。俺が持っていた汚い貝殻は、いつの間にか真っ白になった。
「もし智樹が、智樹の子供を産んでくれって頼んできたら、矢部君さ、受け入れられる?」
暫く波が行ったり来たりする音が続いた。矢部君は口を閉ざしたままだったが、急に息を吸い込んだと思ったら「欲しいよ、智樹との間に子供欲しいよ」と駆け抜けるみたいな早さで言う。
「良かった。それならきっと、出来るよ。セックス。智樹は女の上に立って女を陵辱するような奴じゃない。好きな女に未練タラタラで、ブレスレットを肌身離さずつけてたような、そんな古くさくていい奴だ。矢部君の親父さんとは全く違うんだよ」
見ると、矢部くんが俯いて、唇を震わせている。俺は泣かせるような事は一切言っていないので、非常に困った。後ろを振り返るが、三人は談笑していて俺の目線に気づかない。
「何故泣く。俺は意地悪言ってないぞ」
「人は嬉しい時にも泣くんです。塁がそんなに心配してくれてるなんて、嬉しかったんだよ。だから私、塁の事も、好きなんだよね」
破壊力を持ったその言葉に俺は打ちのめされないように「そう言う事は智樹に言いなさい」と言って彼女の頭をスコンと叩いた。
真っ白になった貝殻は、真夏の日差しを受けて、よく見ると白だけじゃない不思議な色合いを兼ね備えていて、俺は大事にそれを手に持ち「行くぞ」と言って彼女の手をとった。