2-1
昼休みのチャイムが鳴るとともに、ほうぼうで社員が伸びをする声が耳に届く。私も釣られるように大きく背を反らせて伸びをすると、隣に座る黒谷君の好奇に満ちた目が「疲れた?」と覗き込んできた。
「んまぁ、慣れないからね。まだ」
そう言うと「食堂行くでしょ?」と廊下を指差すので私は頷き、椅子に掛けてあったカーディガンを着て立ち上がると、期せずして彼の横に並んだ。
ドン、と音がしたように思う。それは私のすぐ隣で起こり、一瞬頭が麻痺状態に陥った。さっきまで隣にいた筈の黒谷君との間に、添島さんが割り込んでいる。肩にかすかな痛みがあった。
「あ、ごめん」
添島さんが私に一瞥を寄越した。私にぶつかった肩を、汚い物にでも触れたように、手の平で払った。あからさま過ぎる彼女の行動に寒気を覚える。
カーディガンのポケットに小銭を突っ込んで、そのまま手も突っ込んで、彼らの後ろを歩く。先輩が二人、私を挟むように並んだので、私は彼女らと雑談をしながら食堂に向かった。
「楓ちゃんはどの辺に住んでるんだっけ?」
昼休みもあと五分ほどで終わる頃、隣に座る黒谷君はコーヒーを飲みながら私に問いかけた。コーヒーの香ばしい香りが漂う。
「長居駅から歩いて、五分ぐらいの所。黒谷君は寮だっけ?」
「うん、会社に近いって理由だけで。俺もそろそろ一人暮らししたいなぁと思ってんだけど」
そうなんだ、とぼんやり返事をしながら、給湯器の傍に立っている添島さんを一瞥した。やはり、こちらを見ている。痛いほどの視線とはこういう事を言うのだと一人理解する。
「ほら、あの、添島さんと同棲するとか、そういう予定はないの?」
彼は乾いた笑いを伴って「それはないよ」と言い切った。気を遣って投げた質問が、ハレーションを起こし、添島さんは鋭い眼差しを私に向けたまま、自席に戻って行った。
「今、後ろに添島さん、いたんだよ」
私はごくごく小声で彼に言うと、彼は「あ、そういうの気にしなくていいから」と言い切った。
「彼女、嫉妬深いんだ。気にしてると頭おかしくなるよ。こっから異動していった片倉さん、彼女も奈々美の嫉妬でおかしくなって異動してったからね」
まるで日常茶飯事のようにさらりと言う黒谷君を、珍しい物でも観るような目つきで凝視してしまった。
「何?」
「二人、付き合ってるんだよね?」
「そうだけど」
私はそれ以上訊かなかった。彼らの関係に疑問符がつき始めたのはこの頃からだった。
「楓ちゃんの歓迎会、俺が幹事になったから」
私は顔が引きつった。「え、そうなの」
「あれ、俺じゃ不満?」
困惑した顔つきで私を見るので、手をブンブン振って否定した。
「そうじゃなくって。うん。全然。歓迎会なんてやらなくても、いいのになぁって」と口ごもる。
そういう訳にもいかないよ、と言いながら検索サイトで居酒屋を検索している。
きっと添島さんがまた、嫉妬するんだろう。とん、と両肩に手が置かれた。
「松下さん、どんな食べ物が好きなの? 何系? 和食?」
その手の主は、添島さんだった。既に黒谷君が幹事になった事は承知しているようだ。彼女の手はブラウスを通してもとても冷たく、指先にはクラックネイルが施されているのが爬虫類を思わせ、ぞっとした。彼女と同じ空間にいると、息苦しさを感じる。
「別に何でも。皆さんにお任せって感じで。うん」
だってさ、と黒谷君の肩に手を移し、彼の真横に顔を寄せて一緒にパソコンの画面を見ている。露骨過ぎる。社内恋愛だとしても、露骨過ぎる。先輩達は何も思わないのだろうか。片倉さんは私の一年先輩だ。彼女はきっと、彼らの露骨過ぎる社内恋愛に嫌悪感を抱いていたに違いない。だからこそ、おかしな横槍でも入れて、添島さんの反感を買ったのであろう。
店が決定したのか、彼女のヒールの音が離れて行く。部署内でヒールのパンプスを履いているのは彼女のみだ。皆、ナースサンダルに似たローヒールの靴を履いている。だからこそ彼女が移動すると音ですぐ判別できる。それが同じ空間に存在する息苦しさを助長する。