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黒谷君の長い指がパソコンのキーを叩くのに見惚れてしまって、何の説明をして貰っていたのかすっかり頭から欠落する。
「という感じで、これが全所に送られる仕組み。オッケー?」
はっ、として、ごめん、と零す。
「もう一回、いい?」
あくまで自然に、まるで耳に届いていなかった風を装って。まさか見惚れていたなんて気づかれたら手に負えない。彼はふっと短く笑って「男の事でも考えてんだろ」なんて漏らす。
強ち間違っていないので否定できないでいると、また溜息みたいにふっと笑う。黒谷君の長い指先に見惚れていたなんて、口に出せる訳がない。
「じゃぁもう一回、さっきの画面に戻るよ。そんで」
今度こそきちんと聞き洩らさないよう彼の声に耳を傾け、低くてよく響く声に聞き惚れながら、彼の動きをメモに取る。
「大丈夫、メモしといた。次は?」
十月付の異動で、経理部から総務部に異動になった。異動を希望した訳ではないが、後々本社で働きたい事を部長に相談すると、こんな処遇となった。総務部は組織が大きく、同期社員が私を含めて五人も在籍している。働きやすい環境であはるだろう。
総務部長からの指令で、私の教育担当をする事になった黒谷岳(がく)君も同期の一人だ。全身から魅力的なオーラと色気が流れ出ている男。そんな色男を周囲の女が放置しておく筈も無く、数多の争奪戦が繰り広げられた後に彼を手中に収めたのは、同じ総務部で働く添島奈々美だった。
添島奈々美はこれまた全身から魅惑的なオーラを垂れ流している女で、ただし女受けの悪い女というべきか、中身は褒められたものではない。争奪戦に参加しなかった私の耳にさえ、彼女の悪評は流布された。一言で言えば「性格が悪い美人」という事だ。黒谷君はその事を承知した上で交際をしているのかどうか、私は知らない。
「あとは、倉庫だな。ちょっと鍵とってくるから待ってて」
黒谷君にそう言われ、私はまだ見慣れない部屋をぐるりと一回り見渡した。カチリ、とパズルのピースが嵌まるように、私の視線と合致したのは、添島さんの鋭く射るような視線だった。覚悟はしていた。黒谷君が教育担当になった時点で、添島さんには疎まれる存在となる事を。それにしたって獰猛な猛獣のような目つきでこちらを見据えるので、ほんの数秒、私は目を離せなかった。目を離した瞬間になぜか息切れをしていた。息を止めていたらしい。
「お待たせ。あぁ、鍵の場所も教えておくんだった。こっち」
彼の後ろをついて行く私の背中に、視線が刺さったままである事は振り向かずとも分かる。やむを得ないではないか、彼を教育担当に指名したのは部長なのだから。私は何も悪くない。
入社してしばらくしてから開催された同期会の席で、偶然黒谷君と話す機会があった。私は同期会開始から席を動いた覚えがないし、意識して彼の隣に座った記憶もないので、恐らく彼が自ら私の隣に移動してきたのだと推測する。その時には既に、添島さんと黒谷君が交際している事を知っていた。隣に座った黒谷君とは他愛もない話をした訳だが、途中でスルスルとストッキングを滑らせるように近づいて来た添島さんが「がくぅ」と甘えた声を漏らし彼の腕を引っ張って去って行った。その時の視線も私の記憶に刻み込まれている。甘い声とは対照的な、先程私に向けられたあの獰猛な視線だった。
黒谷君に対して特別な感情を抱いている訳ではない。それでもこうして近くで仕事をしていると、彼の一挙手一投足が気になってしまう。彼は女性をそんな風にしてしまう魔力を有しているのではないか、そんなフシがある。
「在庫管理はこのパソコンでやってるから、持ち出す度にこのパソコンに入力してね」
狭い倉庫に声が響く。低くてよく通る声が、更に響いて耳に届く。この空間に、黒谷君と二人きりだと意識すると妙に緊張し、メモを持つ手が揺すれる。
「楓ちゃんならすぐ覚えちゃうと思うけどね。経理ほど入り組んだ仕事じゃないから」
楓ちゃん、と呼ばれる事も、添島さんの機嫌を損ねる原因になっている。黒谷君には「かえでちゃん」という姪がいるらしく、私の名前を聞いて即座に私を「楓ちゃん」と呼ぶようになった。
「こうやって並ぶと、楓ちゃんも奈々美と同じぐらいの身長なんだね」
隣に接近して寄り添われ私は赤面した。「そうだね、アハハ」とかわして身体を離す。不自然だっただろうか。
「まぁ奈々美もいるし、俺がいない時に分からない事があったら同期が助けてくれるから。気楽にやってよ」
そう言ってにっこりと笑みを投げられても、私はひしゃげた笑顔しか返せなかった。一緒にいると魅了される。女性達が争奪戦を繰り広げた理由が明快だ。