沼の歌姫-1
あたしが『歌姫』と出会ったのは、森の沼だった。
緑陰の香りと湿った空気が入り混じる中。
沼の中央に突き出ている岩へ腰掛け、彼女は表現できないほど美しい声で歌っていた。
外国語なのか、歌詞の意味はわからず、もしかしたら、言葉ですらなかったのかもしれない。
ただ、その声は、魔性への恐怖をはるかに上回る呪縛になって、あたしの心臓を鷲づかみにし、足を縫いとめた。
木漏れ日が濡れた金髪を輝かせ、彼女の透き通るような白肌と、繊細な顔立ちを照らし出す。
ほっそりした身体に、藻で編んだ深緑のドレスがよく似合っていた。
年頃はあたしと同じくらいなのに、比べるのも恥ずかしいくらい、彼女は綺麗だった。
ううん。綺麗とか、彼女の姿と歌声の素晴らしさは、そんなありふれた言葉じゃ追いつかない。
気づけば、あたしの頬には涙が二筋伝っていた。
やがて歌は終わり、夢中で手を叩いた。
「あら?ありがとう」
可愛らしく小首を傾げ、少女はあたしに微笑みかけた。
「この沼に誰かが来るのは、本当に久しぶりだわ」
話す声まで、音楽めいたうっとりする響きだったけど、あたしは今更ながら、怖くなってきた。
「小さな頃から、この沼には悪魔が出るから決して近づくなって、言われてるもの……あなたは沼の悪魔なの?」
いつでも逃げ出せるように身構えて、恐る恐る尋ねた。
「そう呼ばれてるわ。この沼から出れないってだけで、ひどい呼び名ね。私には『歌姫』って名前があるの。そっちで呼んでくれる?」
拗ねた子どものように眉をしかめる歌姫は、とても人を頭から食べてしまう悪鬼には見えなかった。
「それで、今度は私が聞く番よ。貴女の名前、それに、どうしてそんな沼に一人できたの?」
「えっと…あたしはフルール。あの…ここなら誰もいないと思って…歌の練習をしたかったの」
彼女の歌を聴いた後では、すごく言いづらかったけど、正直に答えた。
あたしは勉強も苦手だし、何をやってもトロくて手先も不器用。
見た目も酷くて、パサパサの赤毛とそばかすだらけの顔は、鏡を見るのも嫌になる。
だけど歌だけは、密かに自信があった。
学校の音楽劇ではいつもソロを歌わせてもらうし、みんな褒めてくれる。
口の悪い幼馴染、ジーノでさえ、
『お前が声だけだったら、嫁に貰ってやったのにな』なんて言うくらい。
「来月、村で歌のコンテストがあるの。一番上手い娘が、王宮の音楽祭に招待されて、歌えるのよ」
「ふぅん、なかなか楽しそうね」
「だって、王様の前で歌えるのよ!それに優勝した娘は、たいていどこかの貴族から求婚されるんだって!」
「あなた、顔も知らない男と結婚したいの?」
驚いたように尋ねられて、あたしのほうこそ面食らった。
「そんな……あたしはまだ14だし……ただ、こんなつまらない田舎の村で暮らしてたら、お姫さまの夢に憧れるだけよ。いけない?」
「アハハ、いけなくないわ。そういう事だったのね」
「それに……どうせ優勝なんかできっこないわ。今の歌を聴いた後じゃ、自信なんか消えちゃった。村で一番上手いかもなんて言われて良い気になってたけど、あたしの歌なんて、たいした事ないわ」
「あらあら」
彼女は、ふいに岩から飛び降りた。
華奢な裸足は、とぷんと水に飲み込まれることなく、水面を歩いて来る。
水際で彼女は歩みを止め、あたしの顔を覗き込んだ。
「もし良かったら、歌の練習を手伝うけど?」
「……どうして?」
キョトンと尋ねてから、すぐに思い当たった。
「だ、だめっ!引き換えに、魂をよこせとか言うんでしょう!?」
「もう!そんな事言わないわよ。……私の歌を最後まで聞いて拍手してくれた人間は、久しぶりだったから、ちょっと嬉しかったの。そのお礼ってトコかしら」
「本当に……?」
「ええ。もっとも、私が教えたからって、優勝できるかどうかは貴女しだいよ。それでもいい?」
少し前のあたしだったら、悪魔に教えを乞うなんて、絶対に断っただろう。
でも、あたしはもう、彼女の歌を聴いてしまった。
あんな風に歌えるなら……何を失ったって良い。