9.久野智樹-2
「今日は私一人で作るから」
そう言って彼女は手慣れた手つきで料理を始めた。もう何度か来ているこの家の台所の、どこに何があるかは大抵把握できているようで、俺は彼女が料理する後姿を眺めつつナイター中継を見ていた。今日は日本シリーズの第二戦が中継されていた。
ふと、もし自分たちが夫婦になったらこんな風な毎日を送るのか、と想像してしまった。また神様にばれたら天誅を食らう。
テーブルに並んだのは、千切りキャベツを添えた生姜焼きと、マカロニサラダと、味噌汁だった。気取っていなくて、それが逆に特別な気がして、頬が上がる事が自分で制御できなくて困った。身体は正直なんだよな。
「ご飯中はテレビ見る派?」
「俺の実家は見ない派だったけど、ナイター中継だけは許されてたね」
ふふふ、と君枝が笑ったので、何が可笑しいのか分からないけれどこのままナイターを見ていてもいいなと判断して俺は野球を見ながら生姜焼きを食べた。
「何か、実家に帰ったみたいな気がする」
料理の中に懐かしさのような物を感じてそう言うと、「嬉しいなぁ」と言って箸を持ったまま彼女はこめかみを掻いた。困った時や照れた時、こうやってこめかみをぽりぽりと掻くのは、彼女の癖のような物なのだろう。結局ナイター中継なんて全然目にも頭にも入って来なくて、彼女と何だかんだ話しているうちに西武が三点も入れていたのには驚いた。
今日も洗い物を彼女に任せ、俺は茶菓子と緑茶を出した。
他愛もない話をし、彼女は「じゃぁそろそろ」と言って席を立ち、コートを着た。俺もジャケットを着て、「送りはいい」という彼女を制して、駅まで送ると言った。
玄関の前で彼女は振り返り、「ねぇ、一応、こういう時はキス、して帰ろうかな」と途切れ途切れの言葉を落としたので、俺は驚いたけれど、やっぱり身体は正直で、頬が持ち上がり「うん」というそのひと言でさえ上ずった。
玄関で彼女は背伸びをして、俺は少し頭を下げて、大人のキスをした。俺とこういう事をする事に対しては抵抗が無いらしい。それなのに次に彼女から発せられた言葉に俺は首を捻った。
「何か、ごめんね」
申し訳なさそうに俯いて言う彼女の中に「何が、何で?」と理由を探した。
「これ以上になかなか、進めなくって。ごめんね」
そこで合点がいった。
「それはさ、いいじゃん。ゆっくりいこうや」
そう言うと彼女はまたこめかみをポリポリと掻きながら、目じりを下げ、靴を履きながら「ゆっくりいこうや」と俺の言葉を繰り返した。