人為らざる物-1
サイレンが鳴り響いていた。
僕は呆然と立ち尽くすだけ。
片手には赤く濡れた刃物。
眼下には誰かの抜け殻。
ふと窓の外に目をやる。アパートの外に数台のパトカーが急停車した。
もう一度、足元を見る。
(なんだ、これは。)
途端、足が震える。四階のこの部屋を目指してくる警察の足音。
僕は手にしていた刃物を落とし、その部屋から駆け出した。
(僕じゃない、僕じゃない、僕じゃない!!!)
何も考えられずに廊下に飛び出す。階段を上ってくる数名の姿が見える。エレベーターは今、三階を指している。たぶんそれにも何人か警察が乗っているのだろう。僕は洗面所に入り、すぐさま血のついた上着を脱いだ。それを洗面所に投げ捨て身を隠す。階段から、エレベーターから、何人もの警察が事件現場に急行する。入れ替わりに、着いたエレベーターに乗り、僕は一階に向かった。
(なんだ、これは。どうしてこんなことになったんだ。)
心臓は今にも爆発しそうなほど高鳴り、脳が沸騰しそうなほど興奮している。
チン
エレベーターは一階に着いた。僕は足早に出口へと向かう。その際、一人の古びたジャケットを着た中年男性とすれ違った。片腕には警察の腕章。僕は目を伏せて通り過ぎる。
けれど、すれ違うその一瞬。
彼と目が合った。
その、凍りつくような眼差し。
ソレはヒトなのだろうか。
全てに無関心で、けれど全てを見通すような。
体中を支配していた熱は、一気に醒めた。
その一瞥は運命。
近藤はエレベーターに乗り込んだ。
事件現場の四階へと向かう途中、一度腕時計に目を落とす。時刻は午後十時を回っていた。
「ふぅ・・・」
今夜も徹夜になることが確実となり、近藤は一つ溜息をした。この時ほど、犯人に殺意を覚えるときは無い。四階に着き、人だかりをかき分け、彼は現場の最前線に足を落ち着けた。
被害者を見下ろす。
床にうつ伏せになった死体。
次第に頭の奥がクリアになっていく。
凝視する。
ソレは、なんて、不様。
「被害者は?」
「はい、根室祐樹、三十三歳。会社員です。後ろから刃物で何度も突かれています」
「それはそれは、さぞかし恨みが大きかったんだろうよ」
言って部屋を見回す。整然とした部屋には争った形跡は無い。恐らく親しい知人の犯行もしくは見知らぬ他人の突然の来襲か。後ろから突かれるということは、前者の線が色濃い。
「警部。洗面所に上着がありました!」
興奮した面持ちで、新人警官が指し示す。
冷静な表情で、近藤は考えた。事件は直ぐに解決するだろう、と。
やった。
俺はやってやったぞ。
見たか、根室のあの表情。
はは、あははハはハハhaha!!
奴を刺した、この感覚。
あの小僧には分かるまい。
なんとか逃げたようだが、小僧はいずれ捕まるだろうよ。
俺の罪を被って・・・・オレノ罪ヲ・・・
どうしたら良いか分からず、青年は公園で夜を明かした。眠ることなどできなかった。いつ警官が僕を見つけに来るか。怯えながら、震えながら朝を待った。
「どうすりゃいいんだよ」
朝が来たからと言って何も事情は好転しない。とりあえず昨日の事を思い出してみる。けれど上手くいかない。まるで朝焼けの霧のように不確かな記憶の断片。
分かることといえば、死体は僕の会社の上司であるということ。
そして僕は彼に嫌悪感を抱いていたことも確か。けれど僕が殺人なんて出来るわけがない。上司に些細な口出しさえできない小心者の僕が。けれど状況は最悪だった。あらゆる証拠が僕を犯人に仕立て上げるだろう。自首したって警察が僕の言うことを聞いてくれるわけがない。
「はぁ」
今日、何度目かの溜め息。頭上を見上げると、空は薄暗い雲に覆われていた。