『裸と裸』-1
「ワタシは泣きたいんでしょう」
ワタシ、というのはこの私の事だった。私は自分を私と言うから、この人は私をワタシ、と呼ぶ。
私はワタシと呼ばれる事を気にしない。私はこの人をナマエ、と呼ぶ。
「誰がそんな事言った」
ナマエの名前を私は知らない。だから私はこの人をナマエと呼ぶ。いつか、ナマエの本来の名前を教えられたとしても、私はナマエと呼び続けるだろうと思う。
「ワタシの事、見てれば分かる」
ナマエの唇はいつも乾いている。荒れている訳ではないのだけれど、肌に近い色をしている。
相づちの代わりに、私は煙草を消した。
潤いを求めない、ナマエの唇が再び開かれる。
「凄く、簡単」
足を伸ばす事が出来なくて、ナマエが苛ついているのが分かる。
コンクリートとプラスチックと硝子の間で、私たちは何かを待っている。
煙が、私とナマエの間に漂う。
「風が必要、ね」
ナマエと私は、風を望んだ。風を待つ間、私は息を止めていた。
紫煙を吸わず、紫煙を散らさないために。
私は泣きたくなったから、欠伸を一つした。小さな、欠伸。
口の奥を覗かれたいだなんて、思う物好きが果たして居るだろうか。
潤いを持った瞳に、煙がしみる。ナマエを鮮明に見ることが出来なくなったから、私は泣きたくなった事を後悔した。視界を晴らすために、紫煙を散らして欲しいけれど風は少しも吹いてない。
曖昧なナマエの顔が近付いて、私の唇に乾いた唇が触れた。気付いた時には私の唇はナマエの物になっていたし、ナマエの唇は私の物になっていた。
何も感じる事の無い口付け。官能的な感情も、愛情もこの口付けには感じられぬ。
しいていうのなら、そう。プールの中でまどろみ、漂う感じに似ている。無機質で、体温も感じられない。水よりもそれは気まぐれで、蒸発が早い。求めず、求められず。浮遊の感覚は、瞳の潤いを確実に奪っていった。
私はプールの感覚に飽きて、ナマエの唇を強く噛んだ。
「風が、来ない。何故」
ナマエは煙の中で呟いた。さっきより近付いた私たちは、まさに煙の中に居る。
瞳の潤いは後悔と、無機質な口付けで既に乾いてしまった。私はコンクリートに寄りかかり、ナマエはプラスチックに手を添えている。
「消える、何処かに。気がする」
なんだかそんな気がしていたから、私はナマエに教えた。ナマエは無表情で頷く。プラスチックに爪を立てて、視線は私のずっと向こう。
胸を貫かれたみたいに、身体が痛いと思った。心にピアスの穴を、一つ開けられた。感覚はピアス。
恋が始まる時の、ヂリヂリ感から愛情と性欲を引いたような気持ち。
ナマエは立ち上がって、真っ直ぐに歩いて行った。
ナマエは振り返って、真っ直ぐに私を見て言った。
「ワタシは、私を見ていたら分かるんでしょう」
私は頷いた。
「それに、風を感じるのでしょう」
ナマエは声をあらげた。
突然風が強く吹いたから、ナマエの声が途切れてしまいそうだった。
私は頷こうと思ったけれど、頷く前に泣きたくなった。
ナマエが鉄の固まりに飛ばされてしまったから。ナマエの身体が空中に浮かんだから。
私は泣くより先に、その光景を見なくてはならなかった。ナマエの声は消えた。
私は、急がないでナマエの身体に近付いた。ナマエが驚いて、起きてしまわないように。足音にも注意を払い、私はナマエに近付いた。
私は泣きたくなった事を後悔した。ナマエの顔が鮮明に見えないから。
ナマエの身体に触れる事が出来るし、ナマエの身体を見つめる事も容易い。
声だけが聞こえない。呼吸する胸の動きを確認する事も出来なくなっている。
私をワタシと呼ぶ、ナマエの声が消えた。
私が感じたのは、別れの待つ消滅と消失。
そして、体温と紫煙を風が連れて行った。ピアスの穴を風は通って、ナマエは私の前から消えた。