第3話-7
恐らく、英里を指しての台詞ではないと思うが、少しだけぎくりとした。
それにしても、やはり彼は人気があるらしい。
彼は、自分にどれだけ人を惹きつける魅力があるのかわかっていないのだ。
誰にだってあんな爽やかな笑顔を振りまいて…俄かに湧き上がった醜い感情を取り払うかのように、英里はやや早足に歩き出す。
「ちょっ、英里待ってよ!何、突然…」
「さっさと行かないと、休み時間終わっちゃうでしょ」
振り向かずに、そのままの歩調で、職員室へと辿り着く。
基本的に教師に良い印象を抱いていない英里は、当然多数の教師に遭遇するこの場所があまり好きではないので、何か用事がない限り昼間に来る事は滅多にない。
「失礼しまーす。先生、ノート集めました♪」
「あ、ご苦労さま。ありがとう」
圭輔と友人が楽しそうに会話を交わしている。
そんな2人の様子を、一歩後ろに引いたところで眺めながら、何となく英里は黙っていた。
というより、決して関係がばれないように、人目のあるところでは、以前と同じように素っ気無く接するようにしているためだった。
先程の友人の話を思い出すと、今はそのルール以上に少しだけ嫉妬心も加わっているのは否定できないかもしれない。
英里は、所在なさそうに、職員室内を見回していると、
「どうしたの?英里ってばイキナリぶすっとしちゃって…」
「別に…これがフツーだけど」
突慳貧に答えてしまう辺り、彼女が不機嫌だという事を如実に表している。
どうも圭輔が絡んでくると、いつものポーカーフェイスが貫けない自分自身が憎たらしい。
圭輔が彼女の方を向くと、つい顔を逸らしてしまった。
(あからさますぎた…よね)
昨日のことを思い出すと、ほんの少し気まずさが残っている。
「…失礼しました」
息が詰まりそうで、もうこれ以上ここに居たくなくなった英里は、踵を返して、さっさと1人で職員室のドアへと向かおうとする。
「え〜、もう行くの?ここあったかいしもう少しいようよ」
そんな英里の腕を、彼女は掴むが、
「用事済んだんだから、行こ」
「んー…。じゃあ、先生また」
まだ離れ難そうな声を上げつつも、笑顔で圭輔に手を振る友人を引っ張り、英里はそそくさと職員室を後にする。
「英里ってば先生の事嫌いなの?あんなにカッコ良くて優しいのに…」
「まぁね」
不満げに口を尖らせる友人に、英里は興味なさそうに答えた。
(…その逆すぎて困る位なんだけど)
しかし、そっと、彼女は心の中でこう付け足す。
それなのにあんな態度を取ってしまって…また、自己嫌悪に陥りそうだった。
あの日以来、2人の関係はどことなく余所余所しくなっていた。
というより、英里が2人きりになる事を避けていたというのが正しいだろうか。
自分を求めてくれた圭輔を拒んでしまった罪悪感が彼女を苛むのだった。
次にまた似たような雰囲気になった時、逃げてしまいそうな自分自身が怖かった。きっと、二度目になると彼も不審に思うだろう。だから、接触自体を避けていた。
…その夜も図書委員で英里は8時過ぎまで残っていた。
もう7時を過ぎると、ほとんどの生徒が帰ってしまうので、図書委員が遅くまで居残っている必要もないのだが、別に早く帰る理由もないし、ここにいる方が落ち着く。
本を読んだり授業の課題をしたりして時間を潰しているうちにだいぶ遅くなってしまったようだ。
さすがにそろそろ帰ろうかと思い、施錠して職員室まで鍵を返却に向かう。
また、彼は待っていてくれていた。
「あ…」
嬉しい反面、今は少し戸惑う。
英里は静かにドアを開くと、極力平静を装って職員室内に足を踏み入れた。
「お疲れ」
英里が入ってきたのに気付くと、圭輔はいつもと変わらない笑顔で、彼女を労う言葉を掛けた。
「いえ、別に…」
そんな彼に対して、少しだけ、ぎこちない笑みを英里は返した。
「送ってくよ」
「ありがとうございます…」
もう習慣のようになっているのに、断るのも不自然かと思い、英里は素直にお礼の言葉を口にした。
帰りの車内でも、いつもと違う雰囲気が2人を包む。
重い雰囲気のせいか、少し息苦しさを英里は感じた。
「ケーキ、1人で全部食べるのに3日も掛かったよ。でもみんな美味かった。ありがとうな」
「そう、ですか…」
英里がこの調子なので、どうしても会話が弾まない。
彼女自身はいつも通り振舞っているつもりなのだが、圭輔は彼女の何らかの変化を悟っていた。
思い当たる節もなく、圭輔も暫く口を噤んでいたが、
「…この前は、ごめん…」
「え…?」
「水越さんが嫌がる事は、もうしないから」
少しだけ、沈んだ声で、そう告げた。
そんな彼の様子に、慌てて、英里は訂正した。
「そ、そんな、嫌だなんて…ただ…」
「…ただ?」
車を路肩に寄せて止めると、圭輔は英里の方を見つめた。
彼女の様子がおかしいので、どうしても問い質さずにはいられなかった。
あの日から、英里の態度が一変した。理由は、あの時迫った事しか考えられない。
「…。」
まんまと引っ掛かってしまった。
彼女は、彼が悲しげな様子を見せる事にとても弱いのだ。そのままうっかり、ここ最近自分の胸の内を占めている思いを白状してしまいそうになった。
だが、言えるはずもない。
いつだって、こんな卑猥な事を考えているなんて思われる位ならばいっそ…
「何でも、ないです。ほんとに、大した事じゃないんで…」
気まずくなるとすぐに俯いてしまうのが彼女の癖。
そのまま黙ってしまい、何も話す気もない英里を、圭輔は徐に抱き寄せた。
突然の事で心の準備ができておらず、一瞬、英里の体が凍りつく。
「…俺に、触られるのが嫌なんだ…」
「違…」
英里の言葉を待たずに、圭輔は彼女から離れる。