第1話-12
英里が唇を離そうとすると、圭輔がさらに唇を寄せる。
もう少し、彼女の唇を感じたくて無意識に取った行動だった。
「んっ…」
驚いて英里は薄く目を開くと、圭輔と目が合った。
圭輔は唇を重ねている間ずっと、自分の顔を見つめ続けていたのだと知り、かぁっと、英里の顔に血が昇る。
恥ずかしさのあまり、ぎゅぅっときつく目を閉じた。
圭輔が英里の唇を啄ばむように吸う。
「ふぅんっ……!」
一瞬、鼻に掛かったような甘い声が自分の口から漏れて、英里はびくっと身を竦める。
さらに、圭輔の手が英里の長い髪を梳き始める。
まるで髪の毛一本一本に敏感な神経が通っているかのように、彼の指が髪を滑る度に体が震える。
これ以上この行為が続いたら…不意に怖くなって、英里はもう一度唇を離そうとするが、圭輔の手に両頬を包まれて、引き寄せられる。くちゅっ、と生々しい唾液の音が、夜の静かな職員室内にやけに大きく響いて聞こえる。そして、互いの微かな息遣いの音。
触れる程度の軽いキスしか知らなかった英里は、慄き、身を捩る。
(やだ、やだ、怖い……!)
英里は無我夢中で、何とか圭輔との距離を取った。密着していた体が離れると同時に、唇も離れる。
慣れないキスで呼吸の仕方がわからず、肩で荒く息をした。自分の両目にうっすらと涙が滲んでいたのに気付き、英里は瞬きをしてそれを隠した。
自分から仕掛けたのに、涙なんて流すのは卑怯だし、格好悪いと感じたのだった。
(熱い……)
彼の唇の感触を思い出すかのように、英里は呆けた様子で、唇にそっと触れる。
「……今のも、嫌がらせ?」
静かな声で圭輔は英里に問い掛ける。
「…違います…」
動揺で焦点が定まらないまま、ゆっくりと首を左右に振った。
「たぶん、先生の事が好きだから……っ」
あれだけ秘めたままでいようと誓ったにも関わらず、キスの余韻に浸って、英里はうっかり本音を漏らしてしまった。
「わ、忘れて下さい…。違うんです…。違うの……」
さっき以上に頭が混乱して、最早自分が何を否定しているのかさえわからなくなる。
それなのに、こんなに取り乱した自分を圭輔は冷静に見つめている。
いつもの穏やかで温かな雰囲気とはまるで違う。
自分だけ空回りしているようで辛かった。
きっと軽蔑の眼差しで見られているに違いない。
「ごめんなさい…!」
泣きそうな声を絞り出して、英里は今度こそ職員室を後にした。
何をとち狂ってしまったのか。
もうすぐ会えなくなるという思いが英里を駆り立てたのだろうか。
けたたましい音を立てて、職員室の扉が閉められる。
続けて、英里が廊下を走る音が響く。
職員室を出ると、英里は堪えていた涙を零しながら、廊下を走った。
(どうしよう、どうしよう……!)
実らない気持ちなら、せめて後腐れのない終わり方にしたかったのに、最悪な幕引きだ。
―――そして、独り残された圭輔は苦笑を漏らした。
「いつもこのパターンだな……」
天井を仰ぎ見て、彼もまた、自分の唇に触れる。
熱い。まだ、彼女の熱が残っているかのように。
初めて彼女と口づけた時のことをぼんやりと思い返す。
きっとあの時から、既に自分の心は彼女に惹かれていたのだろう。
自覚せざるを得ない。
もう、この思いに気付かぬ振りはできないのだということを。
翌朝、教壇に立った圭輔が、生徒達の前で別れと感謝の言葉を述べる。
英里は初めて圭輔が来た時と同じように、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
少しだけ目が腫れていて、それが鈍く痛む。
まだあの感触が残っているのか、唇が敏感になっていてひりひり痛む。
あんなに泣いてしまう程、一体何がそんなに悲しかったのだろう。
教育実習生の彼を、大人の、男性なんだと初めて認識し、恐れを抱いてしまった事?
彼の前で、格好悪い自分を見せた事?
違う、初めて芽生えた恋心の終焉の訪れ……純粋に彼と別れるのが淋しかったから。
窓辺からは、春のぽかぽかとした陽光が降り注いでいるはずなのに、今の英里にはそれすらもメランコリックに感じられた。
また、つまらない日常が始まる。
彼と出会う前の、からっぽの自分の生活に戻る。
それが当たり前だったのだから、彼がいなくなっても何も変わらないはずだった。
そして、何事もなかったかのように授業が始まった。
英里はそのまま、窓の外の青い空を見つめ続けていた。