5-2
「ただいま」
教室に入ってきた泉は雨に打たれて、びしょ濡れのシャツからは下着まで透けていて、浩輔は目のやり場に困った。雨の様子を伺う様に視線を逸らせた。
「あのさ、俺のロッカーに使ってないタオルがあるから、それ使って身体拭きなよ。風邪ひいちゃうよ」
ガタン、とロッカーを開ける音がして、タオルと制服が擦れる音がする。暫く外を見ながらその音に耳を傾けていた。
「もうベスト着たから大丈夫だよ」
自分の下着が透けているという自覚はあったのだろう。上からベストを着て、ポニーテールに結った髪をタオルで挟んで乾かしている。
浩輔は、告白の結果がどうだったか訊かなかった。泉が自分から口にするまで、待った。
「訊かないの?」
「何が」
「告白の事」
浩輔は長い脚を組み直しながら「訊かないよ」と言った。
「話したかったら話して。話したくなかったらこのまま帰ろう」
泉は髪を乾かす手を止め、暫く浩輔を見つめた。
「やっぱり、優しいね。こう君って」
ゆるゆると首を振って浩輔は「誰かの幸せを願いたいだけ」と言う。泉はタオルを持ったまま椅子に座ると、ゆっくりポニーテールを挟みながら、口を開いた。
「あのね、ダメだった。嫌いじゃないけど受け入れられないって」
ひゅ、っと浩輔が息を急激に吸い込んだ音が、泉に聞こえた。一瞬だけ、教室の空気が氷点に達したように雰囲気を変えた。
「大丈夫?」
「あぁ、ごめん、大丈夫」
その顔には狼狽が溢れ出ていて、一体何があったのか、泉には皆目見当もつかなかった。
嫌いじゃないけど受け入れられない。浩輔は過去にこの言葉を掛けられて、酷く傷ついた思い出があった。それを瞬間的に思い出してしまった。人間の記憶とは恐ろしい物だと浩輔は痛感する。たった一言で、その時の情景も、声音も、表情も、匂いも、思い出してしまう。高性能な機械だ。
「ありがとうね、小出先輩、呼び出してくれて」
うん、と静かな声で返事をした。感謝される事が自分の喜びだ。自分は何も求めてはいけない。自分は与える存在でなければならない。静まり返った教室で、外からの雨と雷だけが断続的に音を立てている。
「泉ちゃん、傘は持ってきてる?」
泉は顔を顰め「それが持ってきてないんだな。駅まで走って、売店で買おうかなって」と言う。
「俺、折り畳み持ってるから、駅まで一緒に入っていきなよ」
立ち上がると浩輔はロッカーへ向かい、黒色の折り畳み傘を手にして席に戻った。
「ほんと、何か色々ありがとう。タオルも。洗って返すから」
申し訳なさそうに整った顔を顰めて礼を言う泉を「いいから、いいから」と浩輔は何度も抑えるのだが、泉は終始礼を言いっ放しだった。
自宅のある大槻駅まで着くと、泉と浩輔の帰り道は逆方向だった。
「あ、そうだ、明日お弁当作ってくるから、パンは買ってこないで」
随分前の約束に、浩輔は少し記憶を辿ったが、確か時間割表を作るのを手伝ったお礼だった。あれ以来浩輔と泉は「掲示物係」に任命された。
「それは楽しみ。期待してるよ」
じゃぁ、と身体を翻した泉に「泉ちゃん」と背後から声を掛ける。
「俺の家、駅からすぐそこなの。今、小振りだし、これ使ってよ」
彼女の細い腕を掴み、その手に黒い傘を握らせると、浩輔は逃げるように走り去った。 雨に濡れる事には慣れている。ただ、昔を思い出すのが辛いだけ。