最期の落陽-3
act.2 「無限井戸のなかで」
「何をしているんですか?」
少年は、そう問いかけた。
だから私は答えた。「君を待っていたのさ」
それは昨日と同じやりとりだった。
「僕を?」
少年は暫く考え、恐る恐る口にする。「あの、失礼ですけど・・・どなたですか?」
私は予想通りの返しに、納得し、そして内心がっかりとするのだった。
「ごめん、多分君は私のことを知らない。けれど私は君のことを知っているんだよ」
「え、と・・・」
彼の頭の周りをいくつもの?マークが浮かんでいる。
「ごめん、ごめん。今のは忘れてくれ」笑いながら言う。
「僕をからかったんですか」
「まぁ・・そう・・かな」
「酷い大人だ」言って少年は海を見遣る。その胸中には、どんな思いが渦巻いているのだろうか。暫く、彼と一緒に水平線の向こうに視線を向けた。
それはいつもと変わらない光景だった。
それはいつもと変わらない香りだった。
それはいつもと変わらない時間だった。
だから私は、堪らなくイラついた。
不変性は、自分が決して這い上がることの出来ない井戸の底に落ちてしまった証拠で。
きっと明日も続く。
私が知り尽くしている、明日も。
世界は変わらず続いていく。
「さっきね、君、どうしようもなく悲しげな顔をしていたからね。声をかけずにはいられなかった」
少年は海を眺めながら、「余計なお世話です」と答えた。
「けれど救われたろ?」
そこで彼は初めて私の目を見た。
「あなたは、一体誰なんですか?」
「あかの他人さ。さっき初めて会って、何度かの言葉のやりとりをしただけの」
少年は何かを言おうとした。
♪〜
しかしそれを遮るように携帯の着信音が鳴り、少年はポケットを探った。
福山雅治「ひまわり」、その曲調からであろうか、メロディに懐かしさを感じた。少年は着信を確認すると、携帯を海に向かって投げた。それは太陽の光を反射して、まるでそれ自体が光を放っているかのように宙を舞い、波に吸い込まれた。
美しいと思った、そのもがき方。私が失ってしまった、その感覚。
「僕は死ぬかもしれない」
その行く末を見ながら、少年は溜めていた黒く弱い部分を吐き出し始めた。
人はいつか死ぬ。
何者かが決めた、そのルールは、けれど平等ではなく。
「生きてきたんだ。僕にすれば糞みたいな人生だ。学校の運動会に参加したかった。部活でみんなと一緒に走り回りたかった。大学に入って彼女でも作って、会社に勤めて、いつか『あぁ、自分なりの人生だなぁ』なんて溜め息をついて」
止め処なく、少年の目からは涙が溢れる。
私は彼の言葉を受けながら、胸ポケットからセブン・スターを取り出す。
「ねぇ、そんな願いさえ」
シュボ
「僕は持ってはいけないの?」
ザザァ・・・ザザァ・・・
音の無い景色。
色の無い叫び。
そして、未来の無い少年。
生きていくことは、そんなに難しいことなのだろうか。
私には分からない。絶対に、分からない。
煙草の煙を吐き出す。
それは潮風に揺れて、空を仰ぐ。
出来ることなら、君と入れ替わりたい。
君が望むものを、私は持ち
私が望むものを、君は持っている。
「けれどさ」私は言う。
「けれど、まだ分からないだろ。君は明日も生きているかもしれないし。十年後も生きているかもしれない。大学に入って彼女でも作って、会社に勤めて、いつか『あぁ、自分なりの人生だなぁ』なんて溜め息をついているかもしれない。君が願うのなら、未来はそう創られていくかもしれないよ」
涙を流しながら、少年は笑った。「『かも』ってたくさん使われると、とても可能性が低く聞こえるね」
セブン・スターから落ちた灰は潮風に舞い、少年は空を仰いだ。
「おじさんは、とても変わっているね」
「おじさんって?」
「ひとりしかいませんよ」
「君は目が悪いようだ」
「それも明日治してもらいますか」
少年は、初めて笑った。その微笑には、まだ子供らしさを残していた。
「僕、あの病院で手術を受けるんだ」
少年は、海の向かいに佇む大きな建物を指差した。
「ねぇ、もし僕の手術が成功したら、会いに来てくれる?」
私は、思いも寄らない問い掛けに、知らずフィルターを噛み締める。
「駄目?」
悪いけれど、きっとそれは出来ない。
君は二度と私に会うことが出来ないし、私はこれからも君に会い続けるだろう、同じときの中で。
「私はね、もう何年間も毎日、この場所に来ているよ。だから君が完治したら、ここに来ると良い」
「・・・分かった」
少年は手を差し出した。
夕日は二人の影を作り出し、水平線の向こうに身を隠していく。
潮風は生暖かく、二人の間を吹きぬける。
私は彼の手を握り。
少年の目には、それは最期の落陽かもしれない。
けれど青年には、繰り返される螺旋のなか。
それぞれに異なる感慨を抱き、今日と言う日が終わる。
「おじさんは、もしかしたら僕と握手した最期の人かもね」
「馬鹿なこと言うな。いつか相応しいひとを見つけろよ」
少年は知らない。
自分に決して明日は来ないことを。
青年は知っている。
自分に決して明日は来ないことを。
その日、一日だけ、彼らは出会う。
どうか、
少年には永遠を
青年には終焉を