マヤの隠れた愉しみ-3
その日の最終授業が終わり、残っていた講師たちも全員が帰った後、教室の電話が鳴った。低く落ちついた声。ユリアの父親からだった。
『もしもし、高峰です。夕方はどうもご心配をおかけしてしまいまして……遅い時間になってしまいましたが、いまから教室にお伺いしてもよろしいでしょうか』
柱に取りつけられた時計の示す時刻は23時。本来なら懇談業務の時間外だが、もちろんマヤは断らなかった。
「はい、もちろんです。ユリアちゃんの件、ですね。わたしも気になっておりましたので、ぜひお話をお聞かせいただければと思っていたので……このまま教室でお待ちしております」
『わかりました。あと10分で行けると思います。それでは』
やや早口の電話が切れた後、高峰は計ったようにきっちり10分後にやって来た。今度はスーツ姿ではなく、ジーンズに黒のセーター、足元はスニーカーというラフな格好だった。誰もいない教室の中で、マヤは面談用のテーブルをはさんで高峰と向かい合う。静まり返った教室に、コチコチと時計の秒針が進む音だけが響く。
「すみません、先生。こんな遅くに……唐突ですが、さっそく用件に入らせていただいても?」
「ええ、もちろんです。病院に行かれたんですよね? ユリアちゃんの傷、いかがでしたか?」
「はい、お恥ずかしい話ですが、医者にずいぶん叱られました。どうして火傷を負った直後に病院に連れて来なかったのかと……手当はしてもらいましたが、やはり大きく火傷の跡が残ってしまうようです。成長につれて多少は薄くなっていくかもしれないですが、ある程度体が成長した段階で皮膚の形成手術を受けさせようと考えています。女の子ですのでね……いや、僕がすぐに気付いていれば……」
「そうですか……」
高峰がいたたまれない様子で目を伏せる。テーブルの上で組まれた腕が震えているのがわかった。マヤには子供はまだいないが、父親にとっては娘という存在は特別に可愛いものだという。高峰の心の痛みが伝わってくるような気がした。
「あの、失礼ですが、ユリアちゃんのお母様は……?」
「ああ、そうなんです。そのことを先生にもお伝えしておこうと思いまして……実は少し前から妻の様子がおかしくて、あんなに可愛がっていたはずのユリアに突然辛く当たるようになってしまって……」
仕事の都合でどうしても家にいる時間が短くなり、子供の世話や教育に関してはこれまでほとんど母親に任せきりだったという。話の様子からいくと、高峰は妻の浮気に関しては知らないようだった。夫のいない間に他の男を引っ張り込みたい妻にとって、ユリアの存在は邪魔でしかないのだろう。その結果、虐待につながっていたとしても不思議はない。でも、そんなことをマヤの口から言うわけにもいかず、マヤは高峰の話の聞き役に徹した。
話は午前0時を過ぎても終わらず、やっと話の区切りがついたのは午前2時ちかくになってのことだった。結局、高峰の中ではしばらくユリアの安全のために近所に暮らす祖母に毎日様子を見に行ってもらうことにしよう、という結論に達したらしい。高峰は時間を忘れて話し続けた非礼を詫び、マヤを車で自宅まで送り届けたいと言い出した。保護者と教室外で一緒に行動することは基本的には禁じられているので、マヤは固辞したが、もうすでに終電も無くなった後のことで、高峰に押し切られる形で車に乗せられた。
車に詳しくないマヤでもわかる高級車、車内にはまだ新車の匂いが残っていた。助手席に乗ると、温まっていくシートが疲れた体を癒してくれた。慣れた様子で高峰が車を操作し、真夜中の道路に滑り出していく。道路の凹凸は微塵も伝わらず、乗り心地は快適そのものだった。