異形愛染-1
それは丁度大正時代が終わり、昭和の時代が始まったころの話だと聞いた憶えがある。
ある地方の山深い山村に伝わる話で、むかし鬼と恋仲になった庄屋の娘が居たらしい。
娘は大そう器量も良く、賢い人物だったと聞く。
そんな娘の事を本当に愛しく思っていたのだろう、鬼も村の人々に迷惑を掛けることなく、山奥でひっそりと暮らしていたが。時々娘に会いに、村に下りて来ることもあったようだ。然るに、取り立てて村人が騒ぎ立てる事もなかった。
そんなある日の事、事件が起きる・・・。
「お父様っ。……わたくし美暗鬼(びあんき)様のところにお嫁に行きとうございます」
娘は村一番の権力者でもある庄屋の父に向かって、そう嘆願した。
だが父は居間のいろりの前に座り込み、微動たりともせず、眉を釣り上げ怖い顔で娘を睨みつけるばかりであった。
「……お父様っ」
「成らぬっ!!」
父の発した突然の怒鳴り声に、娘も驚き、たじろいだ。
「この大たわけめがっ! 鬼の嫁に行きたいなどと、ぐれた事をぬかしおって! 恥じをしれ! 恥じを!!」
鬼と結婚したい。娘の父はそんな彼女の願いを聞き入れることはなく、あまつさえ、庄屋の一人娘が鬼と恋仲などと、いつまでもそのような事を許しておいては末代までの恥じ、家柄にも傷が付くとばかりに、それ以来娘が鬼と会う事を禁じてしまったと言う。
そればかりではなかった。怒り心頭な父親は『退治屋』と称する一団を雇い、娘の恋した鬼を征伐しようと目論みもする。
かくして妖怪や物の怪(もののけ)、そして鬼と言った所の、人にあだなす魔物退治を生業(なりわい)とする一族(修験道=しゅげんどう)の手に係り、鬼は、娘を誑(たぶら)かした悪鬼羅刹(あっきらせつ)とばかりに、その首を撥ねられたと言う。
ことの成り行きを知った娘の悲しみ様は計り知れず。自身もまた生きてはおれまいと、閉じ込められていた蔵のなかで自らの命を絶ったとも伝えられている。
……それ以来、娘の姿を見た者は、居無いそうである。
ややあり。第二次世界大戦も終わり、戦後間もないころである。
二人の猟師が山野を渡り歩き、獲物を追って幾つもの山を越えた頃だった。
「親父っ! ぼちぼち暗くなって来たし……そろそろ今夜の寝城(ねじろ)でも取ろうや」
猟師の親子は、おぼつかなくなった足元を気にしながら、峠を一つ越えた所にある小さな山小屋へと、足取りを早めながら、そう言った。
親子が山小屋へ付いた時には、すでに日もとっぷりと暮れ、空にはまるで降ってくるばかりの満天の星星が瞬き、山野は漆黒の闇へと姿を変えていた。
猟師の親子は山小屋の中で、暖を取るべく集めた薪を火にくべ、持って来た幾ばくかの食料を口にすると。
「明日は雲鳥岳の方へ行って見るべぇ。鹿の足跡がいっぺぇ(たくさん)あったから、きっと大物が居るに違げえねぇ」
「んだなぁ。そうと決まれば今夜は早よ、寝るべぇ」
山二つ越えて、一日中歩き回ったわりにはろくな獲物もなく、けだるい疲労感だけが全身に覆い被さってくる。
父と息子の猟師二人は、また明日の早朝より、さらに山奥へと分け入るべく、早々に就寝する事を決めた。
二人が小屋の板の間に横になってから、いくらもたたなかっただろう。閂(かんぬき)を掛けた小屋の扉を、誰かが叩く音が聞こえた。
街灯など整備されていないこの時代、ましてや険しい山道を、こんな夜更けに訪れる者など無いだろうと、始めのうちは風の音かと気にも止めていなかった。……が。
”コンコンコンッ ……もし宜しければ、一夜の暖を取りたく。中へ入れてはもらえないでしょうか……”
確かに人の声である。しかも声の主は女性のようでもある。
猟師の父親は「はて、こんな夜遅く、しかもこんな山奥で女が山小屋を訪ねるとは、よっぽどの事情があるのか。 ……はたまた物の怪のたぐいなのか?」と、訝しげに顔を曇らせたが。
”お願いです。どうか一晩泊めて下さいまし”
と、なおも弱々しい声で訴えてくる女の声に、腰に差した鉈(なた)に手をあてがいながら、恐る恐る小屋の扉を開けてみた。
半分眠りかかっていた息子も、囲炉裏の前で体を起すと、眼を擦りながら父親の肩越しに扉の前を見やった。
するとそこには一人の女の姿があり、何やら一抱えぐらいの荷物を大事そうに懐に入れて、立ち尽くしているではないか。