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深海の熱帯魚
【純愛 恋愛小説】

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.26 矢部君枝-2

 あの男も優しかった。一人だった母に手を差し伸べ、私の父になると宣言し、私にとても優しくしてくれた。いつも手を握ってくれて、頭を撫でてくれて、可愛い、可愛いと言ってくれた。
 それがいつしか裏切られた。あの優しかった手は、私を凌辱する手に変わった。男の優しさなんて泡沫なんだと、私は乱暴されている最中に無表情でそう思ったのだ。

 でも、この一年近く、智樹君や塁達と一緒に過ごす中で、本当に優しい男の人だって世の中にはいるんだって、分かった気がする。その中でも特に、智樹君の優しさは本当の優しさだって。
 言葉少なに、分け隔て無く皆を包んでくれる優しさ。その優しさを自分の物にしたいような、そんな気分になった。欲張りなのは分かっている。だけど欲しいんだ。塁も、智樹君も。
「映画、好きだって言ってたよね」
 思考回路を分断され「えぇ、あぁ」とおかしな返事をしてしまった。
「借りてるDVDがあるんだ。もし良かったら、明日観て行かない?」
 タイトルを訊くと、まだ私が観た事のない物だった。
「きっと君枝ちゃんが観て行くって言ったら、塁も観るって言うだろうから、三人で」
 また毛布を掛け直している。
「ねぇ、智樹君寒いの?」
「うん、ちょっとね」
 塁は寝返りを打って布団の端っこの方に行ってしまい、私と塁の間には人が一人寝転がれるスペースが空いていた。私は少し目を瞑って考えた。
 男の人がこんなに近い距離に寝転がる事に、私は耐えられるだろうか。眠れるだろうか。
 それでも智樹君はあの男とは違う。優しい。泡みたいに飛んで行ってしまう優しさじゃない。心から優しい。裏切らない。
「真ん中、おいでよ」
 ガバッと音がして、薄暗い中で彼は半身を起こしている。「君枝ちゃん、大丈夫なの?そんなの。だって近いよ?」
 ほら、やっぱり優しい。
「大丈夫。塁も智樹君も優しいから、怖くないから」
 私はそう言うと、暗がりの中で立ち上がった智樹君を見た。暫くその場を動かない。やっぱりやめておく、そんな事を言うんじゃないかと、その言葉を待つ。
 が、彼は敷いていた毛布と掛けていた毛布を二枚をまとめて持ち、塁を乗り越えてこちらへ来た。
 毛布をセットしながら「本当に大丈夫?」と再度訊ねるので「大丈夫だって」と私は全然へっちゃらな声で答えたので、彼は毛布を二枚重ねにして身体に掛けて横になった。
「人二人に挟まれてるとやっぱり暖かいなぁ」
 そう言ったかと思うと、数分後には規則的な寝息を立てはじめた。寒くて眠れなかったのか。
 大の字になって眠る智樹君の横顔を見つめる。塁のぶっきら棒な優しさとは別物の優しさが、彼にはある。毛布から、大きな手が飛び出し、暗闇に白く浮かんでいた。あの手とは違う、優しく大きな手。寒いだろうと思い、その手を毛布の中に仕舞う。
 何でだろう。そのままその手を離したくなくなり、私はそのまま目を瞑った。


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