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「入って。」夏輝が『日向』と手書きで書かれた表札の掛けられたドアを開けて修平を促した。そのアパートは二階建て4軒の世帯が入っているこぢんまりした、決して新しいとは言えない建物だった。夏輝の家はその一階の左側だった。修平は申し訳程度の狭い玄関で窮屈そうに靴を脱いだ。
「早く上がりなよ。あたしが入れないじゃない。」
夏輝は修平が中に入ったのを確認して、自分も靴を脱ぎ、ドアを閉めた後、修平の靴と自分の靴を揃えてつま先を表に向け直した。
玄関脇の壁に、胸に『日向』と刺繍の入った灰色の作業服がハンガーに掛けられ、下がっていた。
「あたしの部屋、右だから。」
「あ、う、うん・・・・。」修平は借りてきた猫のようにおとなしくなっていた。「誰もいないのか?」
「お母ちゃんは伯母さんとこ。」
「伯母さん?」
「お母ちゃんの伯母さん。今老人ホームにいる。」
「そうか・・・・。」
修平が狭い廊下を歩く度、床がぎしぎしと音を立てた。彼はドアの前で立ち止まった。ドアの隅の方のベニア板が少し剥がれかけていた。
「いいよ、入っても。」夏輝が言った。
「え?」修平は振り向いて夏輝を見た。
「なに遠慮してるのよ。」夏輝はいらいらして修平の代わりにドアを開けた。
中は三畳程の部屋だった。夏輝は天井のペンダント型の蛍光灯の紐を引いた。無機質な白い光が部屋を明るくした。その部屋は畳敷きで、襖の引き戸の間口半間の押し入れがあった。カーテンが閉められた掃き出し窓の前に小さな座卓と扇風機。座卓の上にはペン立てと赤いハートの絵のついたマグカップが一つ。壁には学校の制服。部屋の隅に二つの三段ボックスが置いてあり、教科書や参考書がきちんと並べて詰め込まれていた。しかし、それで全てだった。壁にアイドルのポスターも、床に熊のぬいぐるみも、座卓の上にティーン雑誌も、何一つなかった。
修平は三段ボックスから「警察官採用試験問題集」という本を見つけて取り出した。
「おまえ、将来は警察官になるのか?」
「うん。もうずいぶん早くから決めてた。」
「へえ、そうなのか・・・。なんでまた。」
「不幸な交通事故を無くしたい、って言うのが一番の理由。」
「殊勝じゃねえか。おまえにしちゃ。」
「でしょ。」
夏輝は珍しく修平の言葉につっかかってこなかった。「願書、もう出したから、今からいっぱい勉強しなきゃ。」
「試験はいつなんだ?」
「一次試験が10月半ば。それにパスしたら二次試験が11月。」
「高校出てすぐ、警察官になるってのか?早過ぎだろ、おまえ。」
「だって、あたしが大学に通えるようなお金、うちにはないからね。」
「・・・・・・。」
「もしめでたく合格したら、すぐに給料もらえるし、家計の助けにもなるじゃん。」夏輝は笑った。「でも21か月もの研修期間が待ってる。」
「夏輝・・・・。」
「がんばんなきゃね。」
夏輝はカーテンを開け、窓を開けた。やかましい程の蝉の鳴き声が聞こえてきた。アパートの裏には大きな栗の木があって、日差しを遮っていた。そよそよと涼しい風が吹き込んできた。
「この部屋、夏でも結構涼しいんだよ。窓開ければ。」
「な、夏輝・・・・・。」
「ごめんね、汚い部屋で。」
「お、俺、知らなかった。」
「何?」
「おまえが、その、こんなに・・・・」
「貧乏なんだよ、うち。お父ちゃんいないから。」
「そ、そうだったんだ・・・・。」
「あたし、お父ちゃんの顔、知らないんだ。あたしが生まれてすぐ、バイク事故で死んだ。」
修平は言葉を無くした。
「あたしが生まれた知らせを聞いて、病院へ向かう途中で、信号無視の軽トラックと衝突したんだって。」
「夏輝・・・・。」
「あたし、一つだけ願いが叶うなら、お父ちゃんにぎゅって抱きしめてもらいたい・・・・・。」
「夏輝っ!」修平は堪らなくなって夏輝の身体を背中から抱きしめた。「俺じゃ、代わりになんないかもしんないけど、おまえの父ちゃんの代わりになんかなれねえけど、おまえをこうして何度でも抱いてやれる。抱いてやっから。」
「ありがとう、修平。なんか、やっと恋人同士っぽくなってきたね。」夏輝は寂しげに微笑んだ。