幻想にさようなら-1
……滑らかな夜想曲の旋律が聞える。
「ゲホっ!…っは!はぁ…!」
器官に詰まっていた息を吐き出し、カテリナは目を覚ます。
動かない身体は、夜着の上から細いロープで柱にしっかりくくり付けられていた。
両手首もがんじがらめに縛られ、縄抜けはとてもできない。
ちょっとした拘束なら、『アンジェラ』が苦もなく抜けられる事を、バイアルドは知っているからだ。
「う……」
そこは、朽ちかけた教会だった。
元は立派な聖堂だったのだろうが、床板の割れ目からは雑草が生い茂り、アーチ型の窓は、板キレが打ち付けられ封じてある。
古びた祭壇には枝分かれした燭台が置かれ、灯されている五本の蝋燭が、ヴァイオリンを奏でる男を照らしていた。
見慣た神父服に着替えている彼に、かすれた声をかける。
「おとうさま……!?」
バイアルドは演奏を止め、ゆったりした足取りで近づいてきた。
「手荒にしてすまないね。落ち着いてよく話し合うためには、こうするしかなかったんだ」
「話し合うっ!?今更なにを……!!」
激しく睨みつけるカテリナの視線を、そよ風のように受け流し、手のかかる小さな子どもを諭すように、バイアルドが微笑む。
「愛しているよ、アンジェラ。全て許すから、帰っておいで」
しなやかな長い指に、スルリと頬をなぞられた。
甘く柔らかな言葉は、ゆるやかな螺旋をかいて、心の奥へと浸透していく。
「お前がいなくなって、とても寂しい」
「おとうさま……」
強烈な罪悪感が、カテリナの胸に沸き起こった。
ルーファスに抱く想いとは違うけれど、この人もまた、かけがえのない人だった。
「僕も悪かった。もっと早く、きちんと説明していれば、あんな事にはならなかった」
バイアルドの鳶色の瞳が、悲しげに細められる。
その表情に、またズキリと罪悪感を刺激された。
この優しい人を、私はこんなにも悲しませて苦しめているのに……
カテリナの両眼から涙が溢れ出し、頬に添えられた指を伝い濡らす。
「私は……『品物』を逃がし、『畑』を焼いて、追っ手を何人も斬り殺しました。そして……お父さまにさえ、斬り付けました……」
「ああ。可哀想に、動揺したんだね。無理もない」
「それでも……私を許してくださるのですか?」
「もちろんだよ。誰でも大人になる前に、一度は反抗期を通る。現実を受け入れるための儀式みたいなものだ」
もう一度、柔らかな音律の言葉が囁かれた。
「さぁ。一緒に教会へ帰ろう。アンジェラ」
神父は足元の包みを取り上げ、中からシスターの衣服を取り出す。
見覚えのある、馴染みの衣装だった。
「あ……あ……」
「何も心配しなくて良い。大司教さまには僕から話をつけよう。お前の今までの貢献を考えれば、あれくらいどうという事はない」
「……貢献?」
――――急速に、頭が冷えた。
「……あ、あは、アハハ……アハハ!!!」
狂ったような、ひきつった笑いが、喉からほとばしる。
「ええ、そうだわ!散々『貢献』しました!それを考えれば……あっ……あれくらいで……」
拾われて以来、普段はシスターとして、あの教会でバイアルドとひっそり暮らした。
夜会や社交場では赤毛のウィッグを着けドレスをまとい、派手な化粧で顔の印象を変え、子爵令嬢として振舞った。
「おとうさま……いっそ……いっそ何も知らなければ……良かった……」
十数年もの間、積み重なっていった幸せな時。
真実さえ知らなければ、永遠に続いたはずだった……偽りの神との幸せ。
けれど、知ってしまった。
時は撒き戻せないし、もう引き返せない。
「あれくらいで、私の罪は許されたりしない!!!」