幻想にさようなら-4
「……なるほど」
弓をカテリナの首から離し、バイアルドは柔らかく微笑む。
「しかし僕も、教会に雇われている手前、手ぶらでは帰れませんのでね。彼女か貴方の首か、どちらかくらいは持っていかないと」
「私を殺せば良いでしょう!!」
思わず叫ぶと、バイアルドが視線だけ動かし、ひどく冷酷な眼差しで射すくめた。
「黙りなさい」
「!!」
蛇に射すくめられた蛙のように、身体が動かなくなる。
一緒に暮らしていく中で、バイアルドに無用な暴力を振るわれた事は、一度も無かった。
しかし、彼がこういった目をする時は、決して逆らえなかった。
ここまでなってさえも、その視線はカテリナを束縛する。
知らず知らずのうちに、骨の髄まで支配されていた事を、あらためて思い知った。
「どうでしょう?ランベルティーニ公爵。ここで彼女を殺すのは容易いが、できれば僕は、貴方の首が欲しい。僕と決闘いたしませんか?」
鋼鉄の弓が、ルーファスの心臓へピタリと狙いを定めた。
「僕に勝てれば、二人とも生きて帰れますよ」
「ああ。いいだろう」
ルーファスも、剣先をバイアルドに向ける。
「だめ!!ルーファスさまっ!!逃げて!!」
もがくたびに食い込むロープの痛みに耐えながら、夢中で叫んだ。
「お父さまは強いの!!」
ルーファスが、小さくため息をついた。
「……やれやれ。俺は本当に信用がないらしい」
少しの隙もなく身構えながら、バイアルドは微笑む。
「僕は見かけより年寄りでしてね。殺し屋としては、そろそろ引退を考えておりましたが……後継者を失くしたからには、もう少し頑張るとしますか」
教会の外から聞えてくる戦いの音は、一層激しさを増している。
火薬の破裂する大きな音が響いた刹那、二人の足が同時に床を蹴った。
剣と楽器の弓。
形は違えど、鋼鉄と鋼鉄がこすれあい、火花を散らせながら斬撃の応酬を交わす。
暗殺を繰り返す中、カテリナも今まで何度か死にそうな目にあった。
そんな時はいつも、バイアルドが助けてくれ、彼に勝てる相手など一人もいなかった。
しかし……
甲高い音をたて、バイアルドの弓が床に落ちた。
「!」
深く切り裂かれた右肩を押さえ、神父はよろめき膝をつく。
「っは……」
「大人しく投獄され、大勢の人を操った罪を償う気があるなら、医者に見せるが?」
血のしたたる剣先を向け、ルーファスが尋ねた。
荒い息をついている彼も、そこかしこに切り傷を負っている。
「操る?くく……操り人形は、果たしてどっちだったのだか」
苦痛に顔をゆがめながら、バイアルドが笑った。
カテリナが一度も見たことの無い、皮肉気な笑いだった。
「……僕はね、子どもの頃からずっと、相手の望む役を演じていた。そうすれば、誰でも僕を好きになってくれたからね」
細い、ため息のような声が、バイアルドの口から漏れた。
「しかし、望まれる様々な役を演じ続けるうち、気付けば本当の自分はどんな人間なのか、すっかり解らなくなってしまったんだ」
「……」
初めて見るバイアルドの姿に、カテリナはもがくのも忘れて呆然とした。
考えてみれば、バイアルドの歳も出身地も、カテリナと出会う前はどういう暮らしをしていたのかも、何も知らない。
優しく理想的な父親の顔で、いつもカテリナの望む言葉をくれ、進む道を示してくれた。
それだけ……だった。
カテリナはそれに満足し、彼の作り上げた『幻想』に夢中になり、その『幻想』が壊れると、勝手に絶望した。
バイアルド自身の事を、知ろうともしなかったのに、今更気付く。
「教会の殺し屋という仕事は、僕にうってつけだった。何しろ自分というものがないのだから、信念もない。その場その場で、いくらでも善悪を引っくり返し、最適な人物像を作り出せる」
そしてバイアルドは、神父服から一冊の手帳を取り出した。
「これを……」
受けとろうとしたルーファスの鼻先に、手帳が投げつけられた。
「っ!?」
ルーファスが一瞬ひるんだ隙に、バイアルドは獣のような身軽さで跳ね起き、楽器を掴んで祭壇へと駆け寄る。
「悪いが、まだ掴まる気はない。もう少し足掻いて、失くした自分を取り戻したくなったからね」
祭壇の後の壁へ、鋼鉄の弓が一振りされると、漆喰のように見えていた壁はなんなく破壊され、薄い板を張ってあっただけなのがわかった。
そこから先に、真暗な空洞が現れる。
「愛しているよ、アンジェラ」
バイアルドはカテリナを振り返り、大好きだったあの柔らかな笑みを浮べた。
「君が『父親役』ではなく、『恋人役』を求めてくれれば良かったのに」
「おとうさま……」
「さようなら」
そして、赤毛の繰り人の姿は暗い穴に吸い込まれた。
ルーファスが慌てて追いかけたが、中は深く、迷路のように枝分かれしているらしく、彼を見つける事はできなかった。
「カテリナ、大丈夫か?」
縄を解かれた途端、足から力が抜け、ペタンとその場に座り込んだ。
「ルーファスさま……お父さまは、私を殺し屋に『教育』するため、上流階級の食事作法も教え込みました……」
晩餐会で美しく食事ができるよう、スラムでは夢にだって出てこないようなご馳走を何度も食べて、練習した。
どれもこれも、とても美味しかった。
「でも……でも……今まで食べた中で、一番美味しかったのは……」
涙が溢れて視界が滲む。
『じゃぁ、僕がアンジェラを助けよう』