責任-1
「葉子、入るよ」
水色のドアを開けて、ロフトへ続く階段を上る。
飲み終ったゼリー飲料のゴミが、ゴミ箱にいくつかあった。
「少しは食べられてるんだね」
「うん」
葉子は力なく返事をした。
「明日会社だけど、休む?」
「行ってみる。ダメそうなら早退すればいいし。培養してる菌がいるから、出社しない訳にはいかないんだ」
「そうか」
身体を起こした葉子は、深くため息を吐いた。
「三つの中の一つ、決めたんだ。聞いてくれる?」
居住まいを正して、葉子の方を向いた。「どうぞ」
「シングルマザーになる。一人で育てる。健ちゃんが就職してもまだ私を好きでいてくれたら、お父さんになってくれないかなぁ?」
健人は暫く考え込んだ。思い描いていた返事は三番だったのだから。
「どうして就職が関係あるの?」
静かに訊いた。葉子は頭の中で考えをまとめるのに少し時間が掛かった。
「だってね、健ちゃん、就職する時にもう子供がいます、とか、嫁がいます、なんてちょっと恥ずかしいでしょ?」
やっぱり、そんな事だと思った。健人は頭を抱えた。
「俺は――俺は葉子がどうしたいかを一番に考えるって言ったんだ。俺の事なんて考えないでいいんだ」
「でも――」
「でもじゃない。それに、その時まで好きだったら、だって?好きに決まってる。だから俺は葉子の子供の父親になる事を望んでる」
隣の部屋から漏れ聞こえてくる音楽の他には何の音もしない。どちらも声を発しない。
健人は葉子を抱き寄せた。自分の目に涙が浮かんでくるのを悟られたくなかったからだ。
「俺の事なんて心配しないでいいから。大切なのは葉子の考えだ。俺はどうなったっていい」
震える声はなかなか制御できず、葉子は健人の背中を擦った。背中はとても暖かく、片手で擦るには広すぎるなぁと、葉子は大きく手を動かした。
「三つ目。健ちゃんがお腹の子のパパになって。そして私をお嫁さんにして」
今度は声どころではなく、全身が震えた。健人の双眸から葉子のベッドシーツへぽたぽたと涙が零れ落ち、吸収されていった。震える健人の身体を抱き、頭を撫で、初めて健人の弱い姿を葉子は見た。愛おしいと思った。
「健ちゃんが博士号をとって大学を出たら、バードハウスから出よう。三人で小さな部屋を借りて、一緒に暮らそう」
健人は声なく頷いた。そして身体を離し眼鏡を外し、近くにあったティッシュで目蓋を押えた。
「恥ずかしいなぁ、こんな姿を見せて」
葉子はその姿を目に焼き付けておこうと思った。
「私の為に泣いてくれた男の人、第一号」
「第二号は?」
「子供が男の子だったら子供だね」
「葉子、妊娠してるみたいじゃん」
スミカはソファに腰掛けて、対面に座る晴人の言葉を待った。
「そうだな、しかも俺の種だな」
フンと鼻で笑ったスミカは「男は進化しないね」と言った。
「学習能力が無いんだよ。種を撒くだけ撒いて、それが芽吹く事を学習しない。ほんっと、バカな生き物だと思うよ」
「そして俺は芽吹いた新芽を、弟に持って行かれる」
晴人は首の後ろをぽりぽりと掻いた。「参ったな」
「俺の子供が、俺の甥か姪になるって事だな。何か複雑だな」
スミカは冷たい目で晴人を見据えた。
「原因を作ったのは晴人でしょ。まだ健人が子供の父親になるって決まった訳じゃない。最悪の場合、葉子はシングルマザーになるかもしれないんだよ?養育費払える?もう少し責任感を持った方が良いよ」
クッションを顔に押し付けて「シングルマザーかよー」と悔しそうに口にした。
「シングルになるぐらいなら俺を父親として迎えてくれないかなぁ」
ついにスミカは晴人から視線を外した。
「無理でしょ、確実に」
その日の夜、葉子が一日ぶりにリビングに姿を見せた。顔面蒼白で、健人に支えられながらよたよたと歩いた。
「葉子!」
スミカが目を見開いて彼女を見ると、葉子は力なく頬を緩めた。
「話があって出てきたの」
健人は葉子に肩を貸し、ソファに座らせた。スミカと晴人は向かいに座った。
「まだ産婦人科に行った訳じゃないけど、妊娠してるみたい」
周知の事実だったので、スミカも晴人も静かに頷いた。
「もし生まれる事になったら、父親は健人になってもらうつもり」
晴人は予想通りと思い俯き、スミカは驚いていて口を出した。
「だって晴人の――」
「そう、晴人の子。だけど晴人と夫婦にはなれない。でも一人で育てていく強さを私は持ってない。健ちゃんに、パパになってもらうの」
健人は頷きもせず、ソファに身を沈めたまま中空を見つめている。
「健人はそれでいいの?晴人の子を自分の子としていいの?」
視線をスミカにやった健人は、片側の口角を少し上げて笑いながら言った。
「よくさぁ、両親を事故で亡くした子供が、おじさんやおばさんに育てられるっていうの、あるでしょ。あれと殆ど同じだと思うし、俺は本当に自分の子供として育てていく自信がある」
スミカは黙った。そこまで決意が固いのなら仕方がないと思った。
晴人は俯いていた顔を上げて葉子に視線を遣った。
「葉子、なんつーか、ごめん」
本当に悪いと思った。それ故に視線を外せなかった。それ以外に言う言葉が見付らなかった。葉子の双眸を見つめると、葉子の顔が優しく崩れた。
「いいの。一生ママになんてなれないと思ってたし、健ちゃんと一緒になる口実も出来たし、パンクな遺伝子も載ってるかもしれないし」
予想外の砕けた語り口調に、皆笑った。母は強し?ってやつか?晴人は許されない過ちを犯しているにも関わらず、どこか許されたような気がして不思議だった。
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