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数ミリでも近くに
【大人 恋愛小説】

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気付く-2

 朝食の準備が遅れた事もあって、晴人は転がるようにして家を出て行った。
 スミカは相変らず、部屋に籠ったまま出てこない。
「どうしたんだろ、スミカ」
 散らかったキッチンの掃除をしていると、健人が「話、あるから部屋に行っていい?」と葉子に言った。
 話ならここですればいいじゃん、という言葉は寸での所で飲み込んだ。きっと、二階で動かずにいるスミカの事なんだろう。

 例の如く毛足の長いラグに葉子が座り、健人には椅子を勧めたが、健人は「俺も床の方が良い」と葉子の斜向かいに座り、脚を投げ出した。
「スミカ、どうしちゃったの?」
 眉根を寄せて、乗り出すようにして心配をする葉子に、心が痛んだ。
「昨日の夜、二人の関係を解消したんだ」
 双眸を目いっぱいに広げて葉子は息を呑んだ。
「それって別れたって事?」
「うん、まぁそういう事」
 ラグに投げ出された健人の長い脚は組まれていて、何かの彫刻の様に見えるな、と葉子は別次元で考えていた。その脚を見ながら、葉子は話を続けた。
「それで、落ち込んで、出てこないって事?」
 こめかみに指をぐりぐりと押し付けながら「いや、それは分かんないけど」と健人は言うので、葉子は「無責任」と糾弾した。
「俺は自分に正直でありたいって言っただけなんだ」
「抽象的で分かり難いんだよ、健ちゃん」
 葉子は健人の長い脚をべしっと叩いた。健人は黒縁眼鏡の位置を指で直し、一度深呼吸をして口を開いた。
「やっぱり葉子が好きなんだ。しつこいと思われても、やっぱり自分の物にしたい」
 口を噤んだ葉子は、次に何を話したらいいのか分からず、健人の長い脚を単調に、ぺしっと叩き続けた。
「パンクロックが葉子の中で大事な要素だって事は分かった。だけど俺がパンク好きだったら?っていう質問に、葉子は答えなかった。俺みたいな平凡な奴が、葉子をレイプから救ってたら、葉子は平凡な奴としか付き合わなかったのか?たまたまパンクな人だっただけだろ?」
 言われてみればそうだ。たまたまパンクな人だっただけだ。買い物帰りのオバサンだったかもしれないし、ヤクザのお兄さんだったかも知れない。
 今まで自分では気づかないうちに「自分の好みはパンクロックな人」というレッテルの様な物を自ら築き上げ、自分の殻に閉じこもり、狭い世界で「自分の好みの人は皆、彼女がいる」なんて負け惜しみを言って人を遠ざけていたんだという事に、何となく気づかされた気が、葉子にはしていた。
 彼氏いない歴二十五年?それは出会いや楽しみを自ら遠ざけてきた結果だろう。因果応報というやつに他ならない。葉子はそれを今更ながらに知った。
 単調に叩いていた彼の脚が突然折れて、健人は葉子を抱きしめた。
「好きなんだ。兄ちゃんに負けたくないんだ。俺は姉ちゃんとしてじゃない、女として葉子が好きなんだ」
 胸の鼓動が早鐘を打ち、それが健人に伝わっている様な気がして恥ずかしかった。
「健人に抱きしめられてもドキドキするんだ――」ポロリと葉子は口にした。
「今までは何とも無かったのに、今、ドキドキしてる」
「伝わってる。俺の右側がドクドクいってる」
 ぽつりと「どうしよう」葉子は呟いた。
「覆い隠していただけで、本当は健ちゃんの事、好き、だったのかなぁ」
 抱きしめる腕を強めた健人は、葉子の長い髪を撫でた。
「俺が告白した時に抱き付いたのとは、違う?」
「全然、違う」
 あの時は自分から抱き付き、健人は弟だ、と自分に言い聞かせていたんだろう。それも無意識のうちに。彼にとっては酷い仕打ちだったと、今更ながらに後悔した。
「ごめんね、健ちゃん。私、酷いことしてばっかりだった」
「いいよ。葉子の口から『好き』って言葉が引き出せただけで第一歩だ」
 健人は葉子を再び座らせ、葉子は服装を整えた。
「それでも葉子は、兄ちゃんの事も好きなんだろ」
 全てを見透かしたような笑みを浮かべ、葉子を見るので、葉子は頷く他なかった。
 晴人とは趣味が合う。痴話喧嘩も絶えないけれど、葉子を大事にしてくれているのはよく分かる。
 健人はいつでも優しく葉子を見守ってくれている。落っこちそうな葉子を、寸でのところで引き上げてくれるような存在。
 刺激的なのは前者であり、安心できるのは後者。葉子にはどちらも選び難かったし、捨てがたかった。
「兄ちゃんには全部話すから。葉子はゆっくり考えてよ」
 妙に余裕な態度で組んだ脚を戻して立ち上がろうとする健人に「ちょっと待って」と声を掛けた。
「スミカは?スミカはどうなっちゃうの?」
 今朝から一階に下りてくる気配がない。
「スミカは大丈夫だろ。仕事に行けば色んな人に囲まれて、また復活するって」
 そう言うと、葉子の顔を手に取り、髪を撫でた。キスをされるのではないかと身構えたが、それはなかった。
 健ちゃんは、そう簡単に手出しをするような人間じゃない。葉子はそう言う判断をした。
 それでも近づいた顔に、胸の鼓動が届きそうだった。
 やっぱり、好きなんだ。


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