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数ミリでも近くに
【大人 恋愛小説】

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事実-1

 茶色く重い玄関の扉を開けると、キッチンに立つスミカが目に入った。
「ただいまー」
「ただいまでーす」
 スミカはにっこり笑って「朝帰り?」と現実を突きつけた。
「メールした通り、終電を逃しちゃってそれで――ホテルに――」
「ホテル?!」
 スミカが素っ頓狂な声を上げた。
「いや、ビジネスの方ね。泊まってきたって訳で。健ちゃんは?」
 二階の健人の部屋を見遣る。
「さっき朝ご飯食べて、また部屋に戻ったよ。午後からバイトだって」
「あ、そう。では私はこれで」
 葉子はその場をそそくさと離れ、自分の部屋へと戻った。
 スミカの怪訝な顔を見て、晴人が「なんつーか、付き合う事になったっぽい」と打ち明けた。
「え、そうなの?じゃぁ健ちゃんもこれで葉子の事をきっぱり諦めてくれるだろうなー」
 鼻歌交じりに食洗機の中を掃除していた。おめでたい人だ。
 人の心なんてそう易々と変わる物じゃない。
 晴人と葉子が付き合い始めたって、きっと健人は葉子に気持ちが残ったままだろう。
 だが、可愛い弟だからとて、ここは譲れない。葉子は俺の物だ。
 涙をぽろぽろ流しながら想いを告げてくれた彼女の姿は、俺だけの物だ。

「あ、兄ちゃんお帰り」
 二階から健人がスタスタと降りて来た。
「スミカ、何か食い物ある?」
「クッキーならあるよ」
 クッキーの袋と皿を手にし、ソファに座った。
 晴人は自室に荷物を置いてから、リビングに引き返した。昨晩の事を掻い摘んで健人に説明しようと思ったからだ。
 健人はお皿にクッキーをざっと出し、その茶褐色の丸や四角を次々に口へ放り込んでいる。
「健人は昔っからこういう、水が飲みたくなるような食感のお菓子が好きだよな」
 口をもぐもぐさせながら「そだね」と頷く。
 暫くその様を見ていると「何か言いたげな顔だね、兄ちゃん」と指摘され、「さすが我が弟よ」と晴人は応戦した。
「俺と葉子な、付き合う事になった」
 クッキーに伸びた手が、一瞬止まった。が、また動きだし、「そうなんだ」と健人が吐き出した。動揺はひとつも隠し切れていない。
「お前に葉子の事けしかけといて悪いとは思ったけど、自分の気持ちに正直でいたいからな」
「ふーん、正義漢」興味なさ気にクッキーを口に入れているが、本当は気になって仕方がないという事が、兄の晴人には見透かされている。
「で、セックスの一回や二回、してきたの?」
 キッチンから「健人!」と窘めるスミカの声がした。
「してないよ。キスはした」
 また手元が、一瞬止まる。やはり、葉子の事をまだ気にしているのだと言う事が、ありありと解る。
 自分が葉子の一番初めの男でありたかったという健人の思いは、兄の所為で脆くも崩れ去った。
 まだお皿に残るクッキーを再び袋に戻し、スミカの所へ「ごちそうさま」と持って行くと、その足で健人は葉子の部屋のドアをノックした。もう晴人からこんな話を聴くのは沢山だった。
 その様子をやれやれという顔で、晴人は眺めていた。
 スミカは明らかに不満そうに長いため息を吐いた。


「どうぞー」
 健人は無言で部屋へ入った。葉子はラグに座って音楽雑誌を捲っていた。
「どうしたの?」
 座っている葉子と立っている健人とでは高さが違いすぎて、見上げると言うよりは、首を傾けるような形になった。
「兄ちゃんと、付き合ってんだって?」
 消え入るような声で健人がそう言うので、葉子はばつが悪そうに頷いた。
「座んなよ」と葉子は促した。

「俺がダメで、兄ちゃんならいいって事?」
 そんな風に言われるのではないかと危惧していた。現実になった。
「前にも言った通りだよ。健ちゃんの事は弟として好き。これは変わらない。ずっとね」
 雑誌をパタンと閉じると、ラグの長い毛足が吹かれて倒れた。
「兄ちゃんの事は?」
「趣味が合うってとこだけなんだよ、違いなんて。でもその差が大きいんだ、私には」
 よく分からないといった顔で頭を傾げる健人を見て、葉子はゆっくりと話した。
「晴人にも話したけど、私ね、レイプされそうになった所をパンクなお兄さんに助けてもらったの」
 晴人と全く同じ反応をしているのを見て、やっぱり兄弟だな、と葉子は破顔してしまった。
「それ以来、好きになるのはみんなパンク好きな人ばっかり。単純な話でしょ?」
「じゃぁ俺がもし、パンク好きだったら?」
 うーん、と葉子は声を詰まらせた。
「難しい話だなぁ。難しいから却下」
 もしも、の話なんてしたって仕方がない事ぐらい、健人には分かっている。
 しかし「もしも」でもいい、男として好きになって欲しい、そう願ってやまないのだ。
「本当に単純なの。健ちゃんと晴人を比較して、どっちの方が性格がいいか、優しいか、そんな風に比べてないの。言っちゃえば、健ちゃんの方が晴人より優しいしね」
 優しさと言う名の凶器を振り回すこの女性に、本当の優しさなんて分かってるんだろうか、はなはだ疑問だと、健人は口にこそしないが感じていた。
「何でも兄ちゃんに持って行かれるんだなー」
「スミカがいるじゃん」
 健人の肩をぐいと押すと力なく後に反れた。
「スミカより、葉子が良かったんだ」
 真直ぐに葉子の双眸を見据えて言う。
「それ、スミカの前で絶対言わないでよ」
 珍しく厳しい顔でキッと睨み、健人を諭した。
 付き合っている女性がいながら、こういう事が言えるのは、恋愛経験が豊富な人の特権か。葉子は健人を外に追い出した。


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