鈍感-1
翌朝から変わった事がある。
スミカと健人の間に会話が生まれた。
晴人も葉子もほっと胸を撫で下ろした。
「スミカ、俺ジャム塗るからハムとチーズ乗っけないで」
晴人は冷蔵庫からブルーベリージャムを取り出し、テーブルに置いた。
「朝はハムチーズトーストで決まりでしょうが」
「何でハムエッグとハムチーズトーストなんだよ、ハムが被ってんじゃんか」
葉子と晴人は朝から騒がしい。
「そもそもハムの縁が噛みきれな、あぁぁぁ!」
晴人のスーツにブルーベリージャムの紫色が飛び移った。
「あぁ、何やってんのー」
手早くウエットティッシュとティッシュをとり、葉子は晴人のスーツについた紫色を拭った。
「スーツなんて着てカッコつけて朝飯食ってるからだよ」
「女が『あさめし』とか『食ってる』とか言うな」
そんな騒がしいやり取りの横で、スミカと健人は静かに朝食を食べていた。
まるで、老夫婦の様に、時々ぽつりと会話し、見つめ合い、微笑み合っている。
葉子とスミカ、晴人の三人で駅まで歩く途中に問いただした。
「スミカちゃん、一体あなたと健ちゃんの間に何があったの?」
晴人も歩きながらにして身を乗り出している。
「実は、健人と付き合う事になったんだ」
えぇぇぇぇぇ!!と示しを合わせたように叫んだ二人に、スミカはクスっと笑った。
「何?何ゆえにそうなった?」
答えを急く葉子を、諌めるように「そんながっつかなくても」とスミカは微笑む。
「色々相談を聞いてるうちにね、何となくそういう関係になったんだ」
「でも健人は葉子の事――」
葉子は息を呑んで晴人を見た。
「何でそれ、知ってんの?!」
晴人は口を滑らせた事を後悔し、スミカは余裕綽々の笑顔で言った。
「皆知ってるって。お蔭で健人と結ばれたようなもんだから、感謝しないと」
葉子にはよく意味が分からなかった。
「もー何でみんなそうやって、くっついたり離れたり、簡単にできちゃうのかなぁ」
少し悔しくもあったし、不可解でもあった。
葉子は好きだと思った人間以外からのアプローチは絶対に受けないし、惚れた人が何人もいるなんていう状況にもなりえない。
健人みたいに、好きだと言った傍から別の人間と付き合うなんて、有り得ない。
ただ健人の事だから、色々と考えあぐねてこういう結論に達したんだろうと思うと、彼を責める気にもならない。
「こうなったら結婚まで貞操を守ってやる」
「何言ってんのこの人」
晴人とスミカは顔を合わせて笑った。
「葉子ー」
最近、晴人はドアからではなく、ベランダから部屋を訪問する事が多くなった。
「何でそっちからくんの」
網戸をガラガラと開けると、「失礼」と言いながら晴人が部屋に入ってきた。
「なぁ、もうこのチケット取った?」
目の前にぶら下がっているのは、丁度今からネットで買おうと思っていたチケットだった。
「今から買う所だけど」
パソコンを指差したその画面は、まさに「購入」ボタンをクリックする寸前だった。
「待て、早まるな、俺と一緒に行け。チケット二枚あるから。な」
「誰かと一緒に行くんで二枚買ったんじゃないの?」
この鈍チンがっ!と叫びたいのをぐっと抑えて「違う」と答える。
「葉子がきっと行きたがるだろうなーと思って、仕事中にささっと二枚取ったんだよ」
「マジでか」
「おう」
驚いた顔から、花開いた笑顔に変わり、晴人は少し照れくさくなった。
「俺さ、彼女と別れてから、一緒にライブ行く奴もいなくなったし、これからは葉子の事誘っても、いいか?」
晴人にとっては殆ど告白に近い言葉だったが、勿論鈍い葉子には届いていない。
「うん、いいよ。お金は請求してね」
あぁ、と苦笑し、自室へ戻った。
葉子は晴人が部屋から出て行った途端、ブラウザを閉じて、毛足の長いラグに突っ伏した。
突っ伏したまま、脚をバタバタとさせて悶えた。
葉子の事、誘ってもいいか?だって。もう、どうにでもしてー!
四人でテーブルを囲み、夕飯を食べていた。
「スミカのから揚げ、美味いなぁ」
晴人はパクパクと自分の皿に乗ったから揚げを口に入れていく。
そこに、葉子は自分のから揚げを一つ、のせた。
「チケットのお礼だお」
「お、って何だよ、気持ち悪い」
その遣り取りを健人は黒縁眼鏡の奥から静かに見守った。
邪魔者二人がいなくなった今、葉子と兄は交際に発展しないんだろうか、健人はそんな事を考えていた。
夜遅くに喉が渇いてキッチンへ降りて来た時、ベランダから二人の話声が聞こえた事があった。
時々そうやって、ベランダで語らっているんだろうなと思い、その時は嫉妬した。
今でもそういう風にして、お互いの距離を縮めているんだろうか。
健人は時折、スミカの部屋とを行き来して、二人の時間を作っている。
それが何だか、葉子に申し訳ないような気がしてならない。
葉子の事が好きだ、と言ったその言葉に嘘はないのに、そのすぐ後にスミカと付き合う事によって、それを反故にしているようで、いい気分ではなかった。
純粋な葉子にとって、俺は悪魔の様な存在でしかない。
そんな事もあって、彼らがうまく行くといいのに、と思う。