前編-2
「きゃっ」
左の脇腹の辺りに何か柔らかいものがぶつかった感触がしたのと、短い悲鳴が聞こえた
のが同時だった。トイレの出入り口は外から中が見えないように、わざと奥まった造りに
なっていたが、その所為で近くに人が居たことに気付かなかったようだ。
声がした方を見下ろすと、ダークグレーのスーツを着た若い女性が斜めに転倒したまま
の姿勢で腰に手を当てている。膝上丈のスカートから伸びているストッキングを履いた脚
の先には、片方にだけ黒のパンプスがぶら下がっていた。
オレは、自分の足下にもう片方の靴が転がっているのを見つけ、それを拾い上げると、
女性に近づいて手を差し伸べた。
「すいません、怪我はないですか?」
腕に掴まって起き上がった女性は、大丈夫ですと返して、拾って手に持ったままだった
靴を床に置いてくれるように言った。
オレは、黒い革製のトートバッグを預かると、その場で向かい合って中腰になり、靴を
履き直せるように肩を貸して腕を持って支えてやった。自然とお互いの距離が近くなる。
夏向きのコロンでも使っているのか、シトラス系の甘酸っぱい匂いが微かに香った。
「本当に、すいませんでした」
パンプスを履き終えた女性にバッグを返して、もう一度謝ったオレは、こちらに向いた
彼女の顔を正面から見た。パッチリした大きな目が、遠慮がちに、こちらを窺っている。
「いいえ、あたしこそ、ぼぉっとしてたみたいで…」
気持ち喉に掛かるハスキーな声が、厚みのあるポテッとした唇から発せられる。愛嬌の
ある鼻と濃いめではっきりした眉、それぞれのパーツが緩く丸みを帯びた輪郭の内にバラ
ンスよく収まっていて、リッチめのショートボブに整えた髪が顔全体の印象をスッキリと
まとめていた。
(か、可愛い…)
オレは思わず、内心に呟いた。女性の格好はいわゆるリクルートファッションで、地味
ではあったものの、服のサイズはもちろん、彼女の容姿が醸し出す雰囲気によく似合って
いる。転倒させてしまった後ろめたさも手伝って、脈拍が少し速くなるのを感じた。もち
ろん初めての経験ではなかったが、久しぶりの感覚だったことは確かだ。