花退治-1
坂上将軍の蝦夷征伐から百余年。
人型鬼を識別できる鬼追いは数少なくなっていた。
識別のためにはいくつかの試験と、間近での観察が必要となり、左道の鬼を相手にそれをするのはきわめて危険なのである。
時は円融帝の御代。
風の抜ける音もない。
静かだ。永昌は気まぐれに立ち止まり、耳を澄ました。己の足音が消える。静寂。
否。心臓の音が…
しゃりん。
頬におちた雪の冷たさに身じろいだ瞬間、錫杖が鳴った。
衣擦れ。吐息。彼は、自分が息をひそめていたことに気づいた。苦笑しつつ脚を踏み出す。
越前国のはずれである。
都から旅人の気配もない冬の北陸道を歩き、若州を渡る旅であった。
「…降ってきやがった」
笠に手をやり、空を仰いでつぶやく。
白を背に、灰色の雪片がゆっくりと彼に迫っていた。
若州にいる間は、雪は降れども吹雪くことはなく、どうしようもないほど積もりもしなかったので甘く見ていたが、山一つ越えて越前国に立ち入ったとたんにそういうわけにはいかなくなった。さしもの旅慣れた永昌も、不本意な足止めを余儀なくされたのである。
とはいえ…
悪いことばかりでもない。彼は思う。
おかげで捜し物の居場所が絞りこめた。
足止めを喰らった宿で、越前国の山里に出るという鬼の噂を聞くまでは、北陸道上という、それすら推測にすぎない手がかりのほか、何の当てもなかったのだ。
ある鬼を追う旅であった。
人の噂を、言い伝えを、それらから導き出される推論を追って、七日前、ようやく彼は求めるもの…らしきものに辿り着いた。
永昌は、国で百人にも満たない鬼追いの一人だった。
文字通り、野に放たれた人に仇なす鬼を追い、処理を行うのがその仕事の内容だ。
…人に仇なす、ね。
彼はつまらぬと息をつき、衣の肩の雪を払った。
人に仇なす左道の鬼…生み出したのは人に他ならない。
それを、用がなくなったからと退治してまわる。
永昌には、鬼追いとはそうしたものだった。これまで退治してきた鬼どもの、悲しげな目を思い出すたび、胸の内で何かが痛む。
愚かなことだ。鬼の眼球には感情など表れない。あれはただの光の受容器官だ。
よほど人に近い姿のものでもなければ表情もけもの以上には見られない。
いや、そもそも鬼に、思惟はあっても感情はない。
あるように見えるとすれば、それはそのように作られているか…見るものの、思いこみだ。罪悪感か同情か、いずれそうしたものだ。
わかっているのだ。また、わかっていなければ鬼追いはつとまらぬ。
ただ、鬼の外見が無生物らしくなく、人によく似ているからこその、いらぬ葛藤なのだ。
自分が僧の形をやめないのも理由はそれなのかもしれぬ…
しゃりん。
錫杖が鳴った。
無心に歩いていた永昌は、いきなり我にかえった。
否、錫杖は、歩を進めるたびに鳴っていたはずだから、我に返ったから聞こえたというのが正しいだろう。
歩くたび雪片が顔にあたり、冷たいと感じる間もなく溶けた。これほどゆっくり落ちるものには、笠も大して役には立たない。
永昌は集落の外れの丘を目指して雪道を歩いていた。
北国なのだと改めて思う。
それまで旅歩いていた西国あたりとはっきり違っていた。