Heavens Door 〜openness〜-1
大音量とリズム、うごめく人たち。うねる空間を背後に抱えて、あたしはカウンターに座ってぼうっとルビー色のカクテルを飲んでいた。
ふと振り返って入り口を見た。銀色の扉に光っている"HeavensDoor"の文字。
そう、ここはクラブ"HeavensDoor"。
天国の扉・・・でも、扉の向こうにあるのは、退屈な日常。
「沙弥ちゃん、今日はちょっとペース速いんじゃない」
カウンターからマスターが声をかけてくる。
『コレもう一杯もらえますか』
答えのかわりにあたしは言った。
ここは最近のあたしの逃げ場所。予備校に行ってるフリをして、たまに気晴らしに遊びに来てる。
今日も、予備校の自習室からどんより曇った四角い空を眺めているうちに嫌気がさしてきて、予備校を抜け出してここにやってきた。
仲間たちとはしゃぎ合うのはそれなりに楽しいと思うけれど、別に踊るのも騒ぐのもそんなに好きなわけじゃない。ただ、音の渦に呑み込まれてお酒を飲んでいるだけで、ずいぶん解放されたような気になるのだ。
学校も、勉強も、嫌いじゃない。でも、別にやりたくてやってるわけじゃない。
惰性で生きてる、動いてる、廻ってる。そんなあたし。そんなこの世界。
ああ、なんて半端で曖昧な存在なんだろう。
あたしは、心の中で苦笑いをするような気持ちになる。
生きることとか未来のこととか、深く考えるのなんてばかげていると思う。
要は、今をいかに楽しく過ごすかじゃないの―
今夜も、予備校の自習室が閉まる時間に合わせて帰ろうとしたら、思いがけない雷雨で足止めをくらったのだ。
「雨、まだ降ってるかな・・・」
携帯を見つめて、父に連絡をしようかと迷ったが、彼はここのところ仕事が忙しいらしくて、今日は帰れないかもしれないと言っていたのを思い出す。
自宅に電話をかけてみた。
が、留守電に替わるだけだった。
やっぱりそうか。帰れないかもしれない、じゃなくて、帰らない、と理解するほうがいいんだ。いつものことだ―。
仮にもまだ16歳の、高校生の女の子を家にひとり放置するという、さすがあたしのパパ。
じゃあ今日は好きなだけこの場所にいていいのか。あたしは、全く無力で、無気力なひとりの女のコでしかない。なんてちっぽけな存在。
ドラムンベースの下からの響きが好き。胎児が母親のお腹の中に居たとき、感じていた振動に似ているんだと、誰かが言ってたっけ。
ドラムの利いたロックやヘヴィメタルを聴くと、何故か眠くなるあたし。音量を上げるほどなぜか眠くなる。友達はそんなあたしを変だと言ってた。普通は、うるさくて眠れないんだとか。
低音が生み出す地響きのような音のうねりに、あたしは眠くなってくる。
いつしかあたしは、そっと目を閉じていた。
「ニルヴァーナ?」
びくん。
突然、声をかけられて、あたしは我に返る。
『――え?』
隣に、男の人が座っていた。
「携帯。きみの」
『ああ…これですか』
彼は、あたしの携帯に付いてるNirvanaのストラップのことを言っていたのか。
「好きなの?」
『え、まあ…』
「カート・コバーンか」
彼は、もう死んでしまったアーティストの名を口にした。ドライな語り口だ。彼は、カチンとライターを開いて火をつけた。
細くて長い、指だ。
あたしが、じっと彼の指先を見つめていたら、彼は勘違いしたらしく、吸う?という意味であろう目配せをした。
彼と目が合って、あたしは、少し驚いて、首を横に振った。
彼は、ゆっくりと煙を吐き、それから言った。
「―いくつ」
『16です』
「まだ帰らないの」
『…』
雨のせい。父のせい。退屈な毎日のせい。何と答えよう。
あたしが黙っていると、彼はふっと笑い、そして言った。
「―名前は」
『沙弥』
「沙弥。出ようか」
ほんの刹那、あたしと彼の間に沈黙が訪れる。
『あなたは?』
あたしはひと呼吸おいて言った。
彼は、俺?という感じで煙草を揺らす。あたしはこく、とうなずいた。
「名前ね、中善寺秋人、で、21歳」
彼のもつ煙草は、細い煙を上げながら短くなっていく―
「行こう」
彼は、席を立ち、扉へ向かう。
あたしは、静かに席を立ち、彼に不思議な力で引っ張られるようにカウンターに背を向け歩き出す。
そして扉は開かれ、あたしは"HeavensDoor"の向こうへと出ていく。
ここへ来たときにはひどく降っていた雨。今は、霧雨にかわっていた。夜の暗闇が、白く霞んでいる。
あたしの前方を広い歩幅でゆっくりとした歩調で歩く中善寺秋人―と言った―は、すごく痩せていて、座っていたときに感じていた以上に背が高い。あたしは、彼の背中を追って速足で追いつく。