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永久の香
【大人 恋愛小説】

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しゃぶしゃぶの代わり-1

「俺がですか?」
 居室内に高橋君(業務中はこの名前だ)の声が響いた。
「うん、高橋君にはもう少し込み入った仕事もして貰いたいからね。受けてくれるか?」
「はい、頑張ります」
 仕事中の彼にしては珍しく、弾んだ声で課長に言い、私の隣のデスクに戻って来た。
「何の話?」
 小声で訊ねた。
「営業企画部に異動する事になるかも知れねぇ」
 営業企画部とは、営業部を取りまとめるボス的な部署だ。高橋君の真面目な勤務態度や営業成績が評価されたのだろう。営業企画部には比較的生え際が後退したオッサンが多い。
 高橋君はかなり早い段階での異動なのだと思う。
「凄いじゃん、給料あがるじゃん。しゃぶしゃぶ奢って」
「まだ異動すらしてねぇ。まだ給料あがってねぇ。あがったらな。てか何でしゃぶしゃぶ?」
 社内メールで『しゃぶしゃぶ食べたい』と隣のデスクの高橋君に送信したら、『バカか。仕事しろ』と返信がきた。

 それからたった1週間で辞令がおり、10月から高橋君は営業企画部へ移動となった。
 私の営業パートナーは、別の地区を担当していたサイに似ている男性社員に替わり、「夏場はちょっと暑苦しい」と思ったが、それは口に出さないようにした。
「沢田さんと一緒に周れるなんて嬉しいなぁ」とサイの様な面を歪めて笑ったので、私は苦笑で返した。面倒臭い。
 デスクまわりの片づけをしていた高橋君に「お前、誑し込まれるなよ」と耳元で警告された。あんな男に誑し込まれて堪るか。
 片付けを終えた高橋君は、居室でひと言挨拶をして、部屋を出て行った。
 異動と言っても隣の居室だ。しょっちゅう顔を合わせる事にはなる。
 異動早々社内メールで「しゃぶしゃぶ!しゃぶしゃぶ!」とメールを送ると「温泉でも行くか」と返信が来たので驚いた。


 定時ギリギリに外回りから戻り、報告書をまとめていたので少し残業をした。
 やっと帰り支度をし始めた時、居室のドアが開き、高橋君が右手を上げながらこちらへ向かってきた。
「今日、藤の木、どう?」
「あぁ、いいよ」
 手早く荷物を鞄に仕舞い、席を立った。まだ仕事をしている人間が数人いた。
「お先です」と言ってネームプレートをひっくり返し、部屋を出た。
「煙草は?」
「もう済ませた」
 外に出ると、外回りをしていた昼間と比べると随分風が冷たくなっている事に気づいた。
「ちっと寒いなぁ」
 手を揉む仕草をすると、スっと手を差し出された。
「手、繋ぐぞ」
「はぁ、はい」
 目の前にある筋張った硬い手に、自分の手を重ねると、ギュッと握られた。
 恥ずかしくて、自分の黒いエナメルの靴を見ながら歩いた。
 彼の手はまるでホットコーヒーの缶みたいに熱くて、喫煙者って冷え症の人が多いんじゃなかったっけ、なんて事を考えた。
「お前の手、何でこんなに冷てぇの?」
「冷え症」
 そろそろコートを引っ張り出さないとな。
 リンの横顔を見ると、初秋の風にサラサラの黒髪が流れていて、美しかった。

 駅に向かって歩いていると、先を歩く栗毛の女性に目が行った。
 あれ、中田さん?。
 中田さんと思しき人は、2つ先の角を曲がり、そのせつな、目が合った気がした。


 藤の木の暖簾をくぐり、いつも通り大将と女将さんに迎えられ、カウンターの隅に座った。
「お2人でお見えになるの、久々じゃないですか?」
 そう女将さんが言うと、高橋君は朗らかな笑顔で「そうスね」と答え、席に着いた。
「で、温泉って何なに?」
 ビールをひと口飲んでから訊ねた。
「車で行ける範囲でさ、そうだな、伊香保あたりに行かねぇか?俺の奢りでな」
「伊香保って、随分渋いチョイスだねぇ」
 そう言うと、彼は口を尖らせて拗ねた子供のようにボソっと言った。
「ならいいもん、行かねぇもん」
 私はその言草に笑いを誘われてしまった。本当に可愛い人だな、と思った。
「そういう意味じゃなくて。うん、行こうよ、伊香保」


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