ギャップの法則-1
5月の下旬になった。
高橋さんが珍しい事を言い出した。
「今度の金曜、呑みに行かねぇか?」
この会社に入ってから呑みに誘われた事なんて、歓迎会の1度きりだ。
金曜は外回りが入っておらず、定時であがれそうだった。
「はい、喜んで」
どこかのチェーン居酒屋の店員に似た返事をして、カレンダーの金曜日の所に「呑み」と赤字で書きこんだ。時間とか、そういうの面倒だし、書かない。
蟻みたいに黒い小さな文字で書きこまれた予定ばかりのカレンダーの中で、その赤い字は何だかくっきり浮き上がっていた。
金曜は2人とも定時プラス1時間といったところで業務を終えた。
「行きつけの呑み屋があるんだけど、そこでいいか?」
高橋さんがスーツの上着に腕を通しながら言った。
行きつけが出来る程、高橋さんって呑みに行くんだな。新しい発見。
「酒が飲めればどこでもいいですよ」
私が知っている呑み屋なんて、チェーン店ばかりでたかが知れていた。
会社の最寄駅から少し歩いた。
大きな道から小枝の様に伸びる細い路地は、今までその存在さえ気付かなかった。
その路地を抜けた所に、所謂、昔ながらの居酒屋、という感じの、一軒の呑み屋があった。
「藤の木」と木彫りの看板に書いてあった。
ガラリと引き戸を引くと、中にはカウンター席が幾つかと、小上がりテーブルが2席、テーブル席が2つあった。
「こんばんは」
高橋さんは常連っぽい感じでヒラっと右手を挙げた。
「お、高橋さん」
旦那、と呼ばれるその人は高橋さんを見て歯を見せて笑った。
旦那の後から「女将さん」と呼ばれる女性が出てきて「あ、高橋さん」と、これまた大きな笑顔で笑った。
「あら、今日は女の人を連れてきてるの?珍しい。彼女?」
女将さんは高橋さんを見てニヤニヤと笑った。
「いやいやぁ、仕事のパートナーですよ」
そう言うと高橋さんは無言で私の背中を押したので、自己紹介せざるを得なくなった。
「さ、沢田です。高橋さんの後輩です」
あぁこういうのも面倒臭いんです。何故店員さんに自己紹介を。
カウンター席に腰掛け、ビールと適当なつまみを注文した。
「じゃぁとりあえず乾杯って事で」
2人ジョッキを合わせた。カツンと乾いた音が響いた。
金曜日という事もあり、店内は賑わっていた。
「よく来るんですか?ここ」
店内をぐるりと見回して訊いた。日本酒の瓶が沢山並んでいる。
「あぁ、同期連中で呑みに来たり、1人になりたい時なんかに。そういや、女を連れてきたのは沢田さんが初めてだ」
「あら、そうですか」
高橋さんが1人になりたい時って、どんな時なんだろう。興味がわいた。枝豆をぷちぷちと小皿に打ち付けながら、訊いてみた。
「1人になりたい時って、どういう時なんですか?」
顔をあげて高橋さんを見ると、彼はバツが悪そうに下を向いて答えた。
「彼女と喧嘩した時とか、な」
あぁ、そうですか。高橋さんには喧嘩ができる位に仲が深まった彼女がいるんですね。そして喧嘩をして1人になりたい時にこのカウンターに1人腰掛けて――あぁ、何て絵になるんだっ!
きっと彼女は高橋さんに似つかわしく、お美しくて、甲斐甲斐しくて、できる女オーラ出まくりなんだろう。女優で言うと――。
そんな妄想を爆発させていたのが顔に出たのか「沢田さん、顔、ニヤニヤしてっぞ」と高橋さんに突っこまれた。
「あぁ、この顔が沢田デフォルトです」
そう返しておいた。